忍野恋歌 第7話(最終回)
「竹生、ダメじゃないか。忍野は病人なんだよ」「こんな綺麗で可愛いもの、可愛がるなと言う方が無理です」竹生は言った。「絶望に世を儚んだ魂に、この世の喜びを、身にも心にも味わわせてやりましょう」幸彦は竹生を何度見ても飽きる事無く美しいと思った。そして忍野も。幸彦は恍惚とそれを眺めていた。忍野は夢見心地の中で、様々なしがらみも考えも消えてゆくような気がした。雑多なものがなくなると、澄んでいく心の奥に、あの笑顔が輝いて見えた。(麻里子様・・)偽る事を捨てた時、やはり自分の一番愛する者は麻里子であり、一番欲しいものが麻里子の心なのだと、忍野はあらためて感じていた。竹生の青く輝く瞳は、忍野の思いを見ているかの如く、その耳元にささやいた。「お前は、お前のまことに生きるべき道を選ぶが良い。それが土地の望みだ」(私の・・土地の望み・・でも・・)その願いは忘れるべきなのだ。すべて忘れてしまえるなら。心地良さに気が遠くながら、忍野は思っていた。麻里子は奥座敷に舞矢に会いに行った。麻里子が来ると舞矢は機嫌が良くなり、表情が穏やかになった。人間商売をやめてしまった舞矢は、布団に半身を起こしたまま、じっとしている事が多かった。麻里子は昔そうだったように、舞矢に様々な事を語りかけた。老医師からも舞矢の精神の快復の為に、話し掛けるように言われていたが、言われなくても麻里子にとって舞矢は貴重な話し相手だった。かつて麻里子と舞矢が朱雀の会社の同僚だった頃、ランチを取りながら篠牟の事や色々な事を何でも話していた時の様に、今も麻里子は自分の心境を舞矢に話す事があった。舞矢は黙っている。けれども首を傾げてじっと麻里子の話を聞いていてくれるような気が、麻里子にはしていた。最も今も昔も麻里子が一方的にしゃべるのは変わりない事であった。「素直になればいい」「え?」舞矢はまるで正気であった時のように、はっきりともう一度言った。「素直になればいい」それきり口をつぐみ、焦点の合わない目で、舞矢はぼんやりとどこかを見詰めていた。麻里子は押し黙り、舞矢を見ながら、今の言葉を胸の内で繰り返していた。忍野の病も怪我も快復した。竹生は夜になると忍野を外に連れ出し、忍野と手合わせをした。竹生の剣は華麗で的確であった。”盾”始まって以来の最高の盾と言われた竹生の技を目の当たりする幸運を、忍野はうれしく思った。「お前の剣は、人を守る剣だ」竹生は忍野の剣を受け流しなから言った。「私の様に、敵を倒す剣とは違う」ふわりと竹生は宙に飛んだ。月を背に竹生は舞い上がった。白く長い髪が夜空に不可思議な模様の如く流れた。「お前が守り、私が倒す」竹生は独り言の様につぶやいた。「そう、お前が守るのだ」幸彦の体調も良くなり、起きている時間も長くなった。忍野は幸彦の護衛として”外”にいた事もあったが、今の様に幸彦と個人的に話す事はなかった。幸彦は活発な性格ではないが頭が良く、忍野は一緒にいる事が楽しかった。もし、もっと以前にこのような交流があったなら、舞矢の事が知れた時、幸彦の心を支えてやれたのではないか、忍野はそんな事を思ったりもした。立場を超えて、二人の間には友情が芽生え始めていた。竹生はそれを黙って見ていた。石牢の一番穏やかな時間、夜も深くなる頃だった。幸彦の居間となっている部屋で、三人は思い々々の恰好で時を過ごしていた。幸彦は石の壁にもたれ、畳の上に足を伸ばしていた。足首を交差させ、話をしながら、時々それを組替えていた。忍野はその傍らに胡座をかき、幸彦の話を聞いていた。「神内様が、そのような趣味をお持ちとは」「そうだろう、ああ見えて、神内さんは可愛い物が好きなのだ」竹生は横向きに寝そべり、肘を着いて頭を支え、二人の話を聞くともなく聞いているようだった。「そろそろ”外”へ戻ろうと思うのだ」不意に幸彦が言った。「いつまでも三峰に古本屋を任せっぱなしでは気の毒だし、神内さんにも申し訳がない」「お前はどうする、忍野」竹生が向こうから声をかけた。「お前は我等と共に来るか?」忍野はすぐには答えなかった。幸彦は優しく言った。「僕はお前が来てくれるとうれしい。でもお前が好きなようにしていいんだよ」夢の力を持つ者は、忍野本人よりも忍野の夢を知っていたのかもしれない。「僕はお前が好きだから、お前に幸せになって欲しいと思う」忍野は言った。「ご一緒させて下さい。私は”外”で暮らしたいと思います」幸彦は竹生を見た。竹生はじっと忍野に目を当てていた。「礼儀と筋は通さねばならん。村の長や露の家には挨拶に行っておけ」忍野は少しひるんだ。だが言った。「はい、そう致します」劉生は玄関先に立つ息子の姿を見た。忍野はまっすぐに立っていた。「私は幸彦様にお供して”外”で暮らします。お別れのご挨拶に参りました」劉生は込み上げる思いを押さえ、静かに頷いた。「そうか」忍野は深く一礼し、出て行こうとした。その背中に劉生は言った。「村を出ようとどこにいようと、お前は私の自慢の息子だ。露の家の長、この劉生の愛する息子である事に変りはない」忍野の足が止まった。忍野は大きく息をした。忍野は振り向かずに言った。「私も、貴方の息子である事を誇りに思います」忍野は歩き出した。劉生は、健康を取り戻し、しっかりとした足取りで歩いて行く息子の後ろ姿を見送った。幸彦が村を離れる事は、すぐに村中に広まった。忍野が同行する事も。村の長の高遠も臥雲長老も幸彦の回復を喜んだ。幸彦は臥雲長老の元を訪れた。「皆に心配をかけてしまった。すまないと思う」「いや、幸彦様がお元気におなりでしたら、それが一番の村への功徳です」「そう言ってもらえるのは、うれしい」「佐原の夢の力、それはこの村の宝ですからな」「ありがとう、僕は僕なりにこれからも償いをするつもりだ」夕刻を待ち、幸彦達は出立する事にした。幸彦が当主様だった頃の優しい性格に戻った事は村人達に知れ渡っていた。舞矢の兄である異人を救った事も、次代の当主の父親である事も、皆知っていた。幸彦はあえて隠す必要はないと臥雲長老に言ったのだった。臥雲も又同じ過ちを繰り返さぬ為に、佐原の当主と杵人に関する過去の出来事を村人に公開する事にしたのだ。盾の一人が黒塗りの車を佐原の屋敷の門前に停めた。見送りの人々は幸彦の思った以上に多かった。竹生は幸彦の傍らに寄りそう様に立っていた。その隣に忍野が控えめに佇んでいた。高遠が見送りの代表として幸彦に何かを言おうとした時、向こうから駆けて来る者があった。皆の目がそちらを向いた。それは麻里子であった。「あ、あの・・!」麻里子は駆けながら、何か言おうとした。麻里子は何かにつまづいた。前のめりにその身体は倒れそうになった。忍野が大地を蹴った。忍野は跳んだ。麻里子はいつかと同じように忍野の腕に抱きとめられた。人々はそれを見て、胸をなでおろした。麻里子が見上げると、忍野も麻里子を見ていた。互いに言葉が出なかった。「竹生、どうやらお前は楽が出来なくなったようだね」幸彦が竹生に言った。竹生はいつもの如く無表情で幸彦を見、そして忍野と麻里子を見た。「その代わり、私が楽をさせてもらいましょう」高遠が言った。「次の盾の長は、忍野、お前だ」「高遠様、私は・・」忍野が言いかけるのを制するように、高遠は言葉を続けた。「お前は誰よりも強い盾だ。今のお前になら守れるだろう、この村を」高遠は暖かいまなざしを麻里子に注いだ。「そして、その腕の中の人を」忍野は麻里子を見た。麻里子も忍野を見ていた。麻里子の瞳には忍野の欲していた光があった。三隅と須永が走り出て、忍野の前に膝をついた。「我等は忍野様に従います」久遠も走り出た。「私も従います」次々と盾が走り出て、忍野の前に膝をついた。「私も」「我も」忍野は自分の前に並んだ盾達を見回した。高遠は言った。「どうだ、それが”盾”の皆の望みなのだ」忍野の目頭が熱くなった。そして忍野は首を縦に振った。「はい」幸彦は微笑み、車に乗り込んだ。竹生も続いた。車は出発した。盾達は立ち上がると二人を取り囲んだ。そして新しい長の誕生に歓声を上げた。忍野は麻里子を抱いたまま、皆の祝福を受けた。村人達も喜ばしい思いで二人を見ていた。その様子を見ながら三峰が言った。「私もそろそろ出発しないとな」並んで立っていた寒露は三峰に言った。「三峰様は、このまま村におられるのかと思っていましたよ」「あのお二人に店をまかせたら、たちまちの内に潰しかねんからな」寒露は笑った。「確かに」寒露は車を目で追いながら、ふと思いついて言った。「竹生様は、本当はすべてご存知で、こうなるようになさったのでは」「竹生様の本当のお考えなど、私でも分からぬ」三峰は忍野の幸せそうな顔を見て言った。「”外”の言葉で何と言ったかな、終り良ければ、ではなくもっと新しい言葉で」二人の人でない者の耳は、遠ざかりゆく車の中で幸彦の言う言葉を聞いた。「”結果オーライ”かな、竹生」三峰は微笑した。「ああ、そうだ、それだ」寒露はいつもの面白がるような顔をした。佐原の春は、そこまで来ていた。「忍野恋歌(おしのこいうた)」(終)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆様の応援が励みになります☆クリックよろしくお願い致します。『金糸雀は二度鳴く』主な登場人物の説明はこちらです。『火消し』シリーズの世界の解説はこちらです。掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・