金銀花は夜に咲く(66) 「希望の子~Epilogue」〈終〉
「お父さん、僕はどうしたら良いのだろう」柚木(ゆずき)はつぶやいた。竹生の不在の時間、一人になるのを嫌がる朔也(さくや)の為に、柚木は朔也と共に竹生の居間にいた。暖炉には火が入れられていた。はぜる薪の音が深夜の部屋に大きく響いた。柚木は床の敷布の上で膝を抱えていた。柔らかい敷布は栗色で、炎に照らされて淡く赤味を帯びていた。傍らに異国の極上の猫の如く、伸び伸びと寝転んでいた朔也が起き上がった。柚木と同じ様に膝を抱えると、朔也はじっと柚木を見た。「朔也を追い詰めるな」と竹生に言われた柚木は、過去に触れる質問を、朔也にする事はなかった。けれども一度だけこっそりと聞いてみたのだ。「お父さんと呼んでもいい?」朔也は首を傾げ、しばらく黙っていた。柚木の言った言葉の意味を理解したのかどうか、定かではなかった。柚木はまた朔也が不意に錯乱状態に陥ったらどうしようと不安になった。竹生様に今度こそ屋敷から叩き出される、朔也にも二度と逢えないかも知れないと思った。だが朔也は頷いた。「柚木が、そう呼びたければ・・」それ以来、二人きりの時だけ、柚木は朔也を”お父さん”と呼んだ。朔也はそれを嫌がる気配はなかった。「柚木、大丈夫・・鵲(かささぎ)がいるから」朔也はそう言って微笑した。幼い頃、泣いて帰って来た柚木を迎えてくれた笑顔を、柚木はそこに見た。だが過去を失った微笑は、記憶の中の笑顔よりも無垢で、あまりにも綺麗で、柚木は胸が痛くなった。胸の痛みを隠して、柚木も笑った。「そうだね、鵲さんがいる」朔也は柚木の膝に頭を載せた。柚木はいつもの様に髪をなでてあげた。黒く真っ直ぐな髪は細く滑らかで、柚木の指に心地良かった。「どんなに・・深い川があっても、鵲が橋になる」朔也がつぶやくのが聞こえた。「柚木を・・その先に行かせてくれる・・だから、柚木は・・・・・」言葉が途切れ、柚木の膝の上で頭が重くなった。「お父さん、寝たの?」柚木は朔也を抱き起こした。「ちゃんとベッドで寝ないと、竹生様に叱られるよ」「・・うん」朔也をベッドに寝かせると、柚木は枕元に椅子に腰掛けた。「僕はここにいるから、安心して」朔也の差し出した手を柚木は握った。朔也は目を閉じた。目を閉じたまま、朔也は言った。「とても・・眠い。また、しばらく起きられない・・」「無理はしないで、ゆっくり寝て」朔也は頷いた。すぐに小さな寝息が聞こえて来た。柚木はその寝顔を見ていた。(鵲さんだけじゃない。お父さん、貴方もいるから。やっと見つけた。いてくれるだけでいいんだ、今度は僕が貴方を守るよ。僕はもう十歳の子供じゃない。剣の腕も上達したよ、随分強くなったよ。竹生様にもっと鍛えてもらうんだ。もっともっと強くなる。あの雨の日に貴方を失った、あんな事が二度とないように)柚木は心の中で朔也に語りかけた。(僕は沢山の人を守りたい、今まで僕を守ってくれた人達の事も。お父さん、出来るよね?僕はなれるよね?僕は”盾”、真彦の最強の盾・・その預言通りに)風は遠くに吹いていた。風の運ぶ未来はまだ先にあった。その風の存在を感じながら、今も夜空を翔ける者がいた。その者もまた未来を託された者であった。「我らの風は、まだ止まぬ」誰にともなくその者は言った。黒衣の裾が翻り白く長い髪が闇に流れた。月が照らし出した顔(かんばせ)は天上の美を湛えていた。「夜に潜む者達よ、お前達にこの世界を渡すものか。我らの風が吹く限り」美しき影は天空を翔け上り、消えた。(終)