哀しみの異称(6)「黄昏に手をのべて」その3
間人の身体を調べた。足に怪我をしている。手近な枝で添え木をして応急処置をした。夕べの山は急速に冷えていった。久遠が投げ下ろした毛布を広げ、間人の身体を注意しながら抱きあげ、一緒に包まった。腕の中の重みを寒露は心にも重く感じていた。間人の泥に汚れた顔を隠しにあった手拭を取り出しそっと拭ってやった。(三峰様、この子を連れて行かないのではなかったのですか。俺達に託したのではなかったのですか)寒露には解っていた。三峰は理性ではこの子を置いて行く事を望み、本心では連れて行きたかったのだと。俺達にはお役目があり、俺達の人生も命も俺達の物ではないのだ。それが当たり前として生きて来た。だがどこかでそれを苦しいと思う時があるのだ。たとえば今のように。三峰様が伝説の洞窟へ行かれたと言うなら、本当は俺はこの子をそこまで連れていってやりたいのだ。それがこの子の望みであるから。だがこの子は佐原の家に残された最後の子だ。この子が死ねば村は滅びるかもしれない。当主を守る、村を守る、俺は”盾”なのだ。俺はそれから逃れられぬ。いや、逃れる勇気すら持たぬのだ・・久遠が人を連れて戻り、二人は救出された。間人は白の組の者達がただちに処置をし、屋敷に運んだ。泥と血で固まった袖を刃物で引き裂いて、寒露は白の組の者に腕を差し出した。「酷い怪我だな」白露は治療を受けている弟の腕を見て、自分が痛そうな顔をした。「お前が見つけてくれて良かった」寒露の言葉に白露は怪訝な顔をしたが、何も言わなかった。間人は医療用の建物に運ばれた。久瀬が間人のそばに付いていた。間人の意識はまだ戻らなかったが、怪我の具合も命に別状はないと解り、一同は安堵した。事後の処理の目処が付くと、篠牟(しのむ)は二人の気持ちを察して、後を引き受ける事を申し出、執務室に残った。白露と寒露は間人の病室へ向かった。眠る間人を同じふたつの顔が覗き込んでいた。白露が言った。「三峰様のお言葉を、のっけから守りきれない所だったな」「この子を守るは俺達の役目・・か」「ああ」「一番の宝とは、三峰様も口が上手くていらっしゃるな」白露は寒露をこづいた。「三峰様を悪く言うな」「そうではない、あれは三峰様の精一杯のお心でもあったのだ」「そうだな、そうかもしれない」「あの方は俺達以上に多くを背負っておられたからな」「ああ」俺達以上に、あの方も逃れられぬ多くの物があったのだ。安らかに眠る事すら許されず、最期まで少しでも長く生きる道を探さねばならぬ運命。誰が望んで人でない者になると言うのだろう。竹生様はお戻りになられたが、誰も以前の竹生様とは思っていない。出来れば会いたくないと言うのが本心だろう。竹生様がどうやって生きておられるか、本当の所は誰も知ろうとしない。知りたくないのだ。三峰様や”結界”の者達の黒い布に隠されたその下にある恐怖の痕に、誰も触れたくはないのだ。「白露、お前は三峰様にお戻りになって欲しいか」「当たり前だろう」白露は即座に答えたが、目を伏せた。そして付け加えた。「いや、わからない。どう変わってしまわれるのか、それが怖い」「俺もだ」どちらにしても俺達は三峰様を失ってしまった。村の事も盾の事も、二人でやっていかねばならないのだ。二人で・・眠る間人の唇が微かに動いた。何と言ったのか、誰を呼んだのか、二人には分かった。それは彼等二人もたった今胸の内で呼んだ名前であったから。佐原の村は大きな柱を失った。しかし来るべき『奴等』の襲撃までにやらねばならぬ事は多くあった。白露と寒露は多忙の中で日々を過ごした。当主の幸彦は眠りの中に、間人も起き上がる事もいまだ出来ず、守護を失った村の人々は不安の中にいた。鳥さえも声をひそめる空気が村を覆っていた。掲載小説はこちらでまとめてご覧になれます@With 人気Webランキングこちらにも参加しております。