窓の記憶(11)「過去を呼ぶ風」その2
三峰はベランダを振り返り、月を見上げた。「ああ、竹生様がおいでだ」三峰の声は風に溶け込み、夜の闇を彷徨い流れて行った。その声に応えるかの様に、月明かりの向こうから再び風がやって来た。激しい風に乱された髪を、百合枝は片手で押さえた。先程よりも身を引き締める何かがその風の中にあった。ベランダに長身の影が降り立った。黒き外套の裾をひるがえし、白く長い髪をなびかせ、その者は居間に入って来た。風に舞う白髪に縁取られ、仄かに月の光を帯びた白き顔を見た途端、百合枝は目を見開いたまま、身体中の機能が停止してしまった気がした。そして、このまま永遠に、動く事が出来ないのではないかという思いに囚われた。三峰という極上の美を見たばかりであるのに、それ以上の美がそこにはあった。激しく燃え立つ透明な炎に包まれた、それは神の美だった。神を見たものは盲目になるという、古い言い伝えを百合枝は思い出した。これほどに美しいものばかり見てしまって良いのだろうか。百合枝は怖気づいた。肩を抱いている朱雀の手に力がこもった。百合枝はようやく正気に戻った。朱雀が言った。「ようこそお越し下さいました。竹生様」竹生は、無表情の中にあらゆる表情を持つ顔で、朱雀を見た。夜の物憂さを含んだ声が言った。「お前が、なかなか来ぬからだ」三峰が笑みを含んだ声で言った。「まずはそれを降ろしてから、話にしましょう」その言葉に、百合枝は初めて気がついた。竹生は両腕に布で包まれた何かを抱えていた。包みは人の様に見えた。それともうひとつ、訪れた黒白二人の顔立ちが、とても良く似ている事に。「竹生様と三峰は、兄弟なのだ」朱雀が百合枝の疑問に答えるかの様にささやいた。何故、三峰は呼び捨てで、竹生は竹生様なのか、百合枝は不思議だった。それも彼等の”一族”のしきたりに係わる事かも知れない。後で聞いてみようと百合枝は思った。「こちらへ」朱雀は先に立ち、自分の寝室へ竹生を導いた。朱雀の後ろに竹生が続き、その後ろに三峰が続いた。和樹と進士は後に残った。戸惑った百合枝が進士を見ると、促す様に頷いたので、百合枝は彼等の背中に着いて行った。朱雀の寝室は、最初に百合枝が泊まった部屋に良く似ていた。寝台と最低限の家具しかない。それらは上等な物だが余計な飾りはない。むしろ質素に見える部屋であった。白い布に包まれたものは、朱雀の寝台に横たえられた。竹生は振り向いた。部屋の隅に立っている百合枝をその目が捕らえた。「私はお前に用がある」竹生の目は青く魔性に燃えていた。「私に、ですか?」百合枝はその瞳に魅入られてしまった。深く、どこまでも深く、吸い込まれてしまいそうな瞳。だが百合枝の目は、そこに混じりこむ緑がかった光を感じ取った。それは朱雀の傷に見えたのと同じものだった。百合枝の何かが、竹生が目を病んでいると知らせた。操られる様にふらふらと、百合枝は竹生の許へ歩み寄った。ほとんど無意識に百合枝は手を伸ばし、竹生の目のあたりにかざした。朱雀も三峰も、無礼に腹を立てた竹生が払い除けるだろうと肝を冷やした。だが竹生は目を閉じされるがままになっていた。百合枝は両手を竹生の目に当てた。竹生の硬質の陶器の如く透き通る肌は冷たく、百合枝の手のぬくもりが次第にそれを暖めていった。百合枝には、緑の光が自分の手の中に吸い込まれていくのが見えた。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『窓の記憶』主な登場人物『火消し』シリーズの主な登場人物『火消し』シリーズの世界の解説掲載された小説等はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・