海鳴りが香る時~Carthusia~
「日本未発売だった香水なんです」琥珀色の光を帯びた四角い瓶の蓋を取ると、私は懐かしい香りに包まれた。海と夜と焦げた肌の匂い。荒い息と低い豊かな声。都会の真中の清潔なホテルの一室なのに、遠い地中海の潮騒を、私は聴いていた。その人の胸に耳を押し当てて。店員は商売用の笑顔で、語りかける。「当店でも、先月から取り扱う様になったばかりでして」14世紀のカプリ島、修道院の奥で発見された古い文献に記されていた調合法。修道院で作られた香りが、こんなにも官能的なのは、鬱積された修道士達の暗い情熱がこめられているからであろうか。カプリ島にしかない植物を使う為、他所では製造不可能だという。野イチジクに茶葉を合わせた香り。私の知っている香りは、微かにそれに煙草と皮の匂いが混じっていた。そしてあの人のため息と、二人の悔恨が。あの人の声が何を語ったのか、思い出さない事にした。すべては遠い幻の海の底に沈めてしまった時間の中の出来事。だが少しばかりなら、海の底からもらって帰っても良いだろう。感傷という名のお土産を。私はその瓶を購う事にした。「IO CAPRI」店員は完璧な笑顔を崩さないまま、優雅に頭を下げて見せた。