二宮尊徳に思いはせて 七福神めぐり
新聞に今市の七福神+二宮尊徳神めぐりの記事が載っていた。二宮尊徳は報徳二宮神社に神として祭られているのである。 二宮尊徳に思いはせて 七福神めぐり参加者募集2009年1月10日 日光市今市の今市観光協会は二十五日まで「第十二回今市宿七福神めぐり」の参加申し込みを受け付けている。 七福神めぐりは二月七日に実施。当日は今市宿市縁ひろばを午前九時十五分に出発。明静寺(福禄寿(ふくろくじゅ)尊)本敬寺(寿老人)如来寺(弁財天)報徳二宮神社(二宮尊徳神)追分地蔵尊(恵比寿尊)徳性院(布袋(ほてい)尊)瑞光寺(毘沙門(びしゃもん)天)滝尾神社(大黒天)の八カ所をめぐる。約八キロ、約三時間のコース。 今市は二宮尊徳終えんの地。報徳二宮神社に墓がある縁で、実際には“八福神”めぐりとなる。市内外を問わず、完歩できる人を対象とし、定員二百人。夢札付きで参加費五百円。帰着時に甘酒の無料サービスがある。健康保険証(コピー可)持参。申し込みは同協会=(電)0288(21)5611=へ。 夜話に 人は生きているとき神であって死んで神となるのだ、生きているうち人で死んで神となる理はないと尊徳先生がおっしゃった話がある。つまり、二宮金次郎は生きているうち神の業(人を救い人を助ける道を究めた)を行ったからこそ死んで神として祭られたのである。二宮翁夜話 巻の4 【19】尊徳先生はおっしゃった。世界は、人はもちろん、動物や虫や魚や草や木に至るまで、およそ天地の間に、生きているものは、皆天の分身というべきである。なぜかといえば、ボウフラでもカゲロウでも草や木でも、天地造化の力を借りないで、人の力で生育させることはできないからである。そして人はその長である。だから万物の霊長というのだ。その長である証は、動物や虫や魚や草や木を、人間が勝手に支配し、生殺してもどこからも咎められることがない。人間の威力は広大である。そうであれば本来は、人間と動物と草や木と何の違いがあろう。皆天の分身であるために、仏道では、悉皆成仏と説くのだ。我が国は神国であるから、悉皆成神というべきであろう。そうであるのに世の人が、生きている時は人であって、死んで仏となると思うのは誤っている。生きて仏であるために、死んで仏となるのだ。生きて人であって、死んで仏となる道理はあるはずがない。生きて鯖である魚が死んで鰹節となる道理はない。林にある時は松であって、切られて杉となる木はない。そうであれば生前仏であって、死んで仏と成り、生前神であって、死んで神となるのだ。世間で人の死んだのを祭って、神とすることがある。これはまた生前神であるために神となるのだ。この理は明白ではないか。神といい、仏という。名は異っているといっても、実は同じなのだ。国が異っているために名が異っているだけだ。私はこの心を歌に詠んだ。「世の中は草木もともに神にこそ死して命のありかをぞしれ」「世の中は草木もともに生如来死して命のありかをぞしれ」ハハハ