御殿場・竈新田見学会 その2 藤曲浅間神社のニ宮金次郎追悼碑と霊峰富士山
Sさんのプランでは、次のようになっている。11:00 藤曲浅間神社にて、金次郎追悼碑の見学11:10 藤曲用水及び、観音堂経由~報徳愛郷会館~仁杉報徳社~旧グミ沢名主家(江藤家)12:00 お昼藤曲といえばニ宮尊徳の藤曲仕法は有名で、模範とされたという。二宮尊徳全集 第19巻 仕法 小田原領6 解題 にはこうある。 富士東麓諸村の仕法は、数十個村にわたるものであるが、約70ヶ村中、天保凶饉後の救護仕法を受けなかったものはほとんどなかった。諸村中、報徳心の湧発によって、仕法を懇願した十数ヶ村には、その情勢に従って負債償還仕法より、進んで永安仕法を行ったものがあって、これらは既に当時他の範例となり、また後鑑となったものである。藤曲村の仕法、御殿場の仕法、竈新田の仕法等は甚だ有名なものであったのみならず、藤曲村の仕法は当時にあっても、後世においても著名な範例とせられ、竈新田には、現に知足財団として将来に永遠の仕法たる使命を発揮しつつある根基を作ったものである。 藤曲の仕法はいちはやく仕法開始を懇願し、熱誠に教旨を遵奉し実践したために、その仕法書は甚だ入念に認められた。・・・ 仕法書中の教化形式を表明した最も著しいものは「日掛縄索(ひがけなわない)帳」と「難村取直相続手段帳」とである。・・・藤曲の仕法書は、ほとんど仕法書の経典として、報徳の社徒の崇敬して止まざるところである。特に中庸の、天命の章を提げ来たって、これを日常生活に対照し、結局は 智者は奪ひ、富者は驕り、貧者は羨む、この煩悩を去らずんば、村柄立直り不申という千古の金言をもって、天道にのみ支配される禽獣虫魚の生活より、富者必貧の輪廻を脱却せんと努めたのである。 藤曲村では名主平四郎が率先はしたが、68軒の百姓が余りに甲乙なく一致の精進を行った。 藤曲浅間神社には、ニ宮金次郎追悼碑がある。円の石に「誠明院功誉報徳中正居士」という法名が刻んである。円の脇には「ニ宮金治郎」と書いてある。本名は金治郎で小田原藩の役人が金次郎と書いたので、金次郎で通したという説をよく聞くが、ニ宮康裕氏の「ニ宮金次郎の人生と思想」には「金次郎、金治郎、金ニ郎、金次良、金治良」の5種類を使用しており、真偽は確認できにくいとされ、「金次郎」を採用されている。その理由として1 「金次郎」が圧倒的に多い。(金次郎が記した書簡3618通(全集所収)のうち、金次郎と署名のあるのが3277通と90%、金治郎は230通で6%)また、公私別なく「金次郎」が多い。2 金治郎は嘉永年間の決められた月に集中。金次郎はまんべんなく記されている。3 一族宛の書簡もほとんど「金次郎」とある。4 金次郎の建立した両親の墓石には「金次郎」とある。 今回の見学会の参考にさせてもらった報徳博物館の発行した「友の会だより73」の第17回友の会見学ツアー 御厨地地方の報徳群像の跡を訪ねる にはこう説明がある。 天保8年、尊徳は名主鈴木平四郎家を拠点として、お手元金の配分や救援米代金の貸付けを行いました。又、同家は村民が尊徳の教えを受ける集会所にもなりました。 平四郎以下村民は恩恵に感謝し、総出で縄綯いや山稼ぎなどに励み、集めた金を報徳金として差し出しました。 尊徳の没した翌安政4年10月、平四郎等村民は慶林寺境内に墓碑を建立。上部の円の中に「誠明院功誉報徳中正居士」と刻してあります。大正10年に八幡神社境内に移され、昭和10年に現在地に移されました。 その八幡様の前を流れる「藤曲用水」は、慶林寺の耕雲和尚が托鉢をして自力で300間(540メートル)のトンネルを穿(うが)ってほったもので、後に尊徳の指導で改修されたという説があります。 Sさんがその慶林寺の跡地を案内してくれる。網目の鋼板の下をゴウゴウと水が流れている。「天保7年に耕雲和尚が、自分も何か人のためになることをやろうと思い立って、あの山をうがって水を引くことを考えて10年かかってズイ道を引いたそうです。」「天保七年というと天保の大飢饉の年ですね」県道のバイパスがこの慶林寺の跡地を通ることになり、観音堂を移築したとかでバイパスの下のトンネルをくぐってお参りした。案内板にはこうある。「天保7年より弘化3年(1846年)耕雲和尚10年の歳月をかけ、大久保より藤曲にトンネルを掘り、藤曲用水路を貫通させ藤曲20町歩の水田が恩恵を受ける」報徳愛郷会館には、ニ宮尊徳が回村中に腰かけている像がある。(社)御殿場愛郷報徳社 伊倉隆嘉理事長のスピーチがもう10年以上前のものになるが、御殿場ローターリークラブの週報に載っている。 先ず、山林の管理から申し上げますと、戦後近代化が進む中でガス、灯油が石炭や薪に取って代わるようになりました。それに加えて国の政策で杉檜の植林が進められてきたのであります。薪山跡地は農閑期を利用して社員により地造り、植栽、下刈り、除伐を行い林層を見ながら間伐も実施しております。現在社有の土地529haうち杉檜人工林261ha、雑木林134haを抱かえて役員13人、作業班非常勤で20人を持って管理しております。平成9年度の実績をみてみますと、山野巡視108人、山野作業1080人となっております。山野作業のためにはトラック1台、四輪駆動ワゴン車2台、林内作業車1台、木材集材機ひっぱりだこ2台、チェンソー4台を持ち、社員154人には下刈り機各1台を貸与して年2回の義務出社をお願いし、下刈り除伐の作業をしております。 現在、木材価格の低迷で森林事業が合いません。愛郷社は地球に貯金をする心算で育林作業に励んでおります。木材は有限の資財であります。1本の材木を育てるには10~20本の苗木を50~70年と手をかけて出来上がるものであります。まして、銘木を育てるには100年、200年の長い年月が掛かります。愛郷報徳社も人工林植後早いもので40年、立派な林となりました。あと30年汗水流して管理すれば、社の財源として素晴らしい力になると確信しております。 私達は押し寄せる開発の波にのみ込まれることなく、木を植えて緑を守り、大地の恵みを大切にして、綺麗な水と美しい山なみを後の世に残してゆかなければならないと思っております。 次に、コミュニティーセンターの運営について申し述べてみたいと思います。愛郷報徳社は毎月社員常会をもっております。年2回の総会もあります。このため地区公民館を利用しておりましたが、車社会となり、また中心から偏っていたので報徳会館の建設をし昭和56年4月より使用を開始したのであります。 これを運用するに当たっては、報徳コミュニティーセンター運営委員会を組織して地区より運営委員11名を出して運営しております。使用するに当たっては前月20日までに申し込み、その23日に運営委員会を開き、調整をして翌月の施設使用が計られるようになっております。使用料は各施設毎に半日単位で決められておりますが、管内居住者は原則として無料になっております。コミセンの使用は夜間が大部分でありますので、その調整に苦労します。運営委員会ではこれを文化部、体育部に分けて同好会制にして登録させ、毎週の使用日を決めて使用するようにしました。文化部26団体、体育部19団体により毎晩満杯の状態であります。そして、これが唯使うだけでは面白くありません。この集約発表が文化部に於いては文化祭となり、体育部においては球技大会、ゲートボール大会、また親善ゴルフ大会となって花を咲かせるようにしています。いま、年間使用延べ人員3万人を超えておりますが、昭和56年開設以来16年間の使用延べ人員478,000人となっております。 報徳社創立当初180戸余りの村落が戦後の開発の波にのり1,000戸を超す状況となりました。社員154人、管内4,000人の人達と和を計り地区の行事に少しでも役立つことができればと頑張っているところであります。 いま、政治、経済ともに混迷の真っ只中であります。この時こそ報徳の道の花開くときである訳ですが、長い間の金浸かり社会に慣らされて、他人の欠点短所をつくことに長けて、自ら励む力が萎んでしまい情けない状態であります。 わが御殿場愛郷報徳社は気高き富士のお山の姿をその儘に、そして二宮尊徳先生の至誠、勤労、分度、推譲を益々励み、子孫に淀みない世を送ってやりたいと専心努めているところであります。御殿場の報徳社の特徴は山林などの財産を持ってその基金をベースとして運営しているということである。こういう形で地区が報徳のもとによくコミュニティーをつくることに熱心であることに驚かさせられる。旧グミ沢名主家(江藤家)の前を通って、Sさんが昼食を予約していてくれた御殿場市永塚の「木の芽」に行く。後で聞いたらここのお米は杉山さんちで取れる御殿場こしひかりを使っているということでとてもおいしかった。コーヒーもポットでだしてくれてタップリと飲めたのも嬉しかった。雲一つない青空に白妙の衣をまとった雄大な富士山、まだ少し雪の残る坂道を登った小山の上からの眺めはそれはそれは素晴らしいものであった。