二宮実記 発米廩(こめぐらびらき)
新講談二宮実記 発米廩(こめぐらびらき) 春風軒秋霜 「上」これは天保7年丙辰(ひのえたつ)の大恐慌に、野州芳賀(はが)郡三か年陣屋の勤役(きんやく)、二宮金次郎尊徳(たかのり)大先生が僅か三百戸足らずの小邑(しょうゆう)の余力を種として、野州烏山、同じく茂木(もぎ)、並びに相州小田原領の遠近において、飢餓に苦しむ十万の生霊を救うたという実録、斯民(しみん)二十年号のお祝いに、読み切り物として伺います。飢饉救済の手始めは野州烏山大久保佐渡守四万石の内那須、芳賀二郡二万七千石の領分これに対して天保7年11月28日から、大枚221俵の玄米を送る。桜町烏山間13里、毎日毎日米俵を負わせたる駄馬が続きます。馬夫(まご)達、道すがらの評判とりどり。「オイ次郎蔵(じろぞう)、何と豪儀なことぢゃねえか、この大飢饉の世に、宝珠(ほうしゅ)のようなお米を山のように積み出すとは」「さようとも、さようとも。これと申すもお陣屋二宮様のご利益だんベエ」「ご利益といえば神さまのようだが、この頃世間で二宮様を活神(いきがみ)様といってるそうだ」「そりゃそのはずだよ、二宮様だもの。どうせ一の宮のお次に座らしゃるべえ」「イヤそんなに混ぜるでねえよ、だがこの四五年このかた二宮様が、領分の飢饉を助ける為に、だんだん政治をやって下さったことは、手前も覚えているだろう」「そりゃあ知っているとも、覚えているとも。それを忘れてどうなるものか」「そうとも三か村の人民が、それを知らねえ者は無エはずだが、然し四郎吉、手前は今日始めて夫役(ぶえき)に出て来た小僧子だから、余り詳しくは知るめえなあ」「そうよ、爺(ちゃん)から聞いてはいたが、余り詳しいことは知らねえよ」「そうだろう、そうだろう。では後学のため語って聞かそう」 中で年取って物識りらしい眇(すが)めの太郎作(たろさく)、過ぐる天保3年以来(このかた)、二宮大先生が凶作を予知して準備対策を講ぜられたことを、見聞のまま片言まじりに物語る。駒(こま)の歩みに鈴の音はリンリンと和して、大飢饉という年の寒空に、この駄馬の道中だけは、全く小春日和のよう。「さて元来をいえば二宮様は、天明飢饉からの年数を測って、もう大凶作が来る時分だと、去る天保3年の辰年からその用意を始められたんだ。翌(あく)る4年の巳歳(みのとし)には、6月の土用に二宮様が、茄子をお上がりなされて、これは不思議、はや秋茄子の味がしている。これは地気というものが、既に夏を去って秋となっているのだ、これではきっと早冷えで、今年は米と綿はダメだと、俄(にわ)かに綿畑を掘り返して大根や蕎麦を植えさせ、田には米を抜いて稗(ひえ)を作らせされた。果たして秋は大凶作で、米と綿とは皆無となり、稗や蕎麦を作ったものは、お蔭で意外の収穫を得たものだ。それから5年6年7年と続いて、一戸一反歩を無税として穀物を作らせ、一人別5俵の食糧(くいぶち)を貯(たくわ)えさせ、足らない者へはお役所から足してやり、余る者へはお役所から足してやり、余る者へは売り出しを許された。その余りの貯(たくわ)えが積りに積ってこの大飢饉に桜町ばかりは米の山、全く天下泰平で、先日(このあいだ)も百俵、茂木へ運んだが、今度は烏山へ200俵というんだ、なんと豪気なものではないか」「ホンに恐れ入ってしまうねえ」「そうとも、そうとも」「そうとも、そうとも」「活神(いきがみ)二宮大明神」「活神二宮大明神」馬夫(まご)達一同は「活神二宮大明神」の標語を囃(はや)しとして、烏山(からすやま)街道を囃し連れて行く。駒の鈴の音リンリンリン 「中」 此方(こなた)は桜町陣屋の奥の間、勤役(きんやく)二宮大先生、机によって筆をとりながら、何か黙想思案の体(たい)。「小田原の飢饉で4度目の飛脚。それ飢えを救うことは溺るるをがごとし。その場に臨んで熟考や、詮議(せんぎ)の暇(いとま)はない。さればこそ烏山飢饉の救済については、藩主が我が小田原侯のご親類でもあり、殊(こと)には天性寺円応(えんおう)、家老菅谷(すがや)の誠心(まごころ)、藩侯自筆の懇請にほだされ、佐渡守(さどのかみ)よりと自分よりと、同時に小田原侯へ書面を差し出し、同時に救済を実行したるは、全く自分の専断であるが、畢竟溺るるを救うの急務、猶予を許さぬからである。石州銀山領の井戸代官が切腹の覚悟で幕命を待たず、倉廩(こめぐら)を発(ひら)いたのと同じ心持だ。然るに独り我が本藩たる小田原よりの矢の催促に、当所仕法最初の約束、いかなる事ありとも仕法の間、君召さず、臣行かずの本文(ほんもん)を盾に取って、いっかな足を挙げないのは、聊(いささ)か冷酷、不人情に似たりといえども、実は本藩役人共の愚昧(ぐまい)、今軽率に召しに応じては、左議右論、曠日(こうじつ)弥久(びく)し、かえって事を破るの虞(おそれ)あり。故に暫く自重して、彼らが真に無力を自覚し、真に誠意を以て予が援(たす)けを請い、処置政策について予の言に従うの時機を待たんためであった。而して彼らの自覚はなお未だ来たらざるに今度(このたび)四度目には君侯の手書(しゅしょ)を以て、この金次郎を召さるるに至った。勿体なや、小田原12万石の城主、天下の老中大久保加賀守(かがのかみ)、特にこの身の大恩の君主、忠真(ただざね)侯のご自筆を以て「予が直々(じきじき)に頼む」とのお言葉、もうかくなっては是も非もない。時機なお早しとは思えども、躊躇は君への不忠に似たり。結果は兎に角、いったんの無礼は本意にあらず、よしさらば明日(みょうにち)出発参府致そう。そうじゃそうじゃ」と、独りうなづき、さらさらと返書をしたため江戸家老早川茂左衛門あてとして封緘(ふうしん)を施し、手をポンとうてば給仕が出て来る。豊田殿を呼んで参れと、表役所から次席の豊田正作を呼び寄せ、かようかようと事のあらましを説き示し、例の小田原評定で、どうせ長旅となることだからとて、留守中の公務、越年年始の取り計らい方まで申し聞け、自身は飛脚に一日後(おく)れて、天保7年極月(ごくげつ)25日、朝靄を破って那賀川(なかがわ)より河舟(かわぶね)で下り、荒川水道を通って深川に出で、順路麻布の大久保侯上屋敷に着かれました。 さてそれぞれへ届け出で、すぐにも藩侯ご面謁かと待っておられますと、案のごとく小田原役人今日は雨だ、明日は風だと、ブラリブラリと日を暮らす内に、たちまち年も暮れてしまい、心ならずも越年し、不安の年始を迎えていると、今度はいよいよ殿様のご病気、ご面謁どころか急場の飢饉救済の方策(てだて)、一項として決定が出来ない。一日一日と領民の飢餓(うえ)は迫る。既に奥州には小判を枕に飢え死にしたる者あり。甲州には2万の暴徒蜂起して官は発砲討ち払い苦しからずとの令を下した。世間はますます物情騒然、二宮大先生気が気でない。 毎日役人の所に催促にゆかれる。飢饉救済は素手では出来ない。勿論ご自分の用意もありはするが、小田原領内数万の飢民を救うだけのものはない。「今年の凶作大飢饉の儀は5年前から察知しておりましたので、自分支配地桜町三ヶ村では、去る辰年から用意を致させ、殊に昨年(天保7年)に至りては、春以来の気候大不順に、いよいよ大凶歉(だいきょうけん)の到来を信じ、役所内には禁酒を命じて貯金をなさしめ、村内では、酒造米三分の一に減石のご公儀の命令をなお押し強めて、酒造全廃となし、なお水車を休業させて米麦のつき減りを少なくし、その他(た)あらゆる事柄に、十二分の注意を払って、食糧節約に努めた結果、僅か三ヶ村の余力を以て細川侯の茂木(もてぎ)、大久保侯の烏山を救済したる次第であります。「他国他領さえかくのごとし。況んや我が本藩小田原においてをや。拙者受領の禄米はそのまま小田原に預け置き、その他用意の金子若干、携帯致してはござれども、十二万石の領分に対して、これのみにては焼け石に水のたとえ、到底行き届くべき道理なし。依って藩庁より千両一箱、並びに小田原米蔵の貯穀、随意随時に助貸相叶うよう、至急決定相成りたい」家老用人(ようにん)に申し立てる、理の当然のことなれども、例の小田原役人衆では、又しても野州理屈と本気に取り合おうとも致しませぬ。あるいは自己ら燕雀(えんじゃく)の心を以て、二宮大先生の大鵬(たいほう)の志を忖度(そんたく)し、役格をのぼせ、恩遇を加えて、成るべく藩の失費をかけず、二宮をおだてて働かそうと策する者あり。その議が勢いを得て昇格に決し、その叙任式を行おうとして、まずご紋付きの礼服を賜った。そこで役人がその衣服を携え、二宮大先生の宿所なる、西久保八幡前の宇津邸に参り、その旨を申し入れると、有り難しと感激して役人どもの言いなり次第に御用を勤めるかと思いの外、大先生は烈火のごとく憤(いきどお)り、その役人に喰ってかかる。「一体、貴殿は今日の時節をいかなる時節と心得ていられるか。天下大凶(だいきょう)、餓ヒョウ(がひょう)途(みち)に相望み、一揆暴動各所に起こる。我が小田原領幸いにして未だ大乱に及ばずといえども、飢餓の急報日夜に到達す。不幸にして明君上に病に臥し給い、下(しも)賢臣の君に代わって、一誠(せい)大事を断ずる者なし。この時に当って一領の紋服、之を寸断して小田原に送らんに、以て飢民の腹を充たすに足ると思うか。咄々(とつとつ)役人の大馬鹿共かようなことで拙者を釣ろうということならば、折角百事をなげうって君命に応じた所詮なし。よって拙者はお暇(いとま)をして野州へ帰る。それとも迅速に決断をするか、急ぎ帰って家老用人共へ、この旨申し聞けられたい。こんな衣服など用はない」と投げるように突き戻す。使者の役人は驚きもし、余りの無礼とも思ったけれど、とても二宮には勝てないと、歯ぎしりをしながら引き揚げる。恩賜の紋服をも手にも触れず、散々重役を罵倒して使節は追い返す。二宮大先生も礼において相応(ふさわ)しからずと承知しながら、全く心あっての無礼、かようにせねば重役達、とても決断出来ないのを察して、即ち最後通牒を発せられたのだということであります。 大先生の測量は、果たして真の的に的中しました。さすが姑息(こそく)に因循を重ねたる江戸家老以下重役達も、この際二宮に逃げられては飢民救済が出来ないのみか、君命を以て召されたるに対して重役として申訳ができない。已むを得ずして恐る恐る、ご病床なる大久保侯へ申し上げ、ご内意を伺うとそれは勿論二宮の望みに、任せよとの仰せ、鶴の一声金石よりも重し、ここに至って重役達今更夢のさめたるごとく、周章狼狽して大先生を呼び迎え、君命を以て小田原飢民救済の事、望みの通り計らうべきものなりと、上意の次第を面目なげに申し聞ける。 四度も急使を発して二宮大先生を、はるばる野州から呼び迎えながら、大事の場合に四五十日も、すったもんだで日を送ったのは、徹頭徹尾重役の失態、その愚や沙汰の限りであります。「下」さても天保7年丙申(ひのえさる)の暮に着江戸致された二宮大先生は、八年丁酉(ひのととり)の正月を空しく過ごし、2月も中旬(なかば)の11日にようやく決定の君命を拝して即日江戸を出発し、途中一泊で13日小田原城へ到着成り、そのまま登城、君命によりて二宮金次郎、飢民救済に向かったり、早速米廩(こめぐら)を発(ひら)くべき由、係の者へ申し入れる。優柔不断を以て有名なる小田原藩在国の重役どもも君命と聞いては捨てても置けず、直ちに会議を招集する。場所は城内表役所、四十八畳の大広間、馳せ集ったる面々は床脇(とこわき)正席に城代家老千五百石の大久保頼母(たのも)、千石の服部十郎兵衛以下、辻七郎右衛門、牧野喜左衛門、用人、奉行それぞれの役人、列を正して着席する。二宮大先生は君命を帯びたる飢民救済の執行官、委員長たることなれども、身分役格(やくがら)が低き故、遙か末座に控えられる。城代家老まず口を切る。「時に二宮氏、君命の次第詳細に、この場において申し述べられるよう」かねては頗るぞんざいな言葉遣いをするのであるけれども、時節柄といい、君命といい、かたがた以て余程丁寧に、尊敬して言うた積りである。大先生はいと率直に「さればこのたび、領内飢民救済につき、金千両を金次郎に賜い、かつ城内の米廩(こめぐら)を、随時随意に発給致すべき者なりとの君命であります。金子(きんす)は拙者持参致したれば、直ちに分配致すべく、米廩(こめぐら)は即刻お発(ひら)きになりたい」と、城代は少し思案の体(てい)で、一座をヂロリと見廻しながら、 「各々方いかがでござろう。二宮氏の口上は唯今お聴きの通りであるが・・・・・」坐の中ほどから進み出でたる者あり、用人久野惣太夫、平素弁舌を以て聞えた武士、 「唯今二宮氏のお言葉、ご尤もとは存じますが、然らば在府の重役から、その旨の通知が参っておるのでありますか、一応ご城代へお尋ね申す」とまず質問の矢を放つ。これに答えて城代家老、 「アイヤその儀は未だでござる。在江戸からは今日まで何の報告(しらせ)も参っておらぬ」 「では失礼ながら二宮氏の口上のみを信じて、米廩(こめぐら)をひらくことは出来ますまい。イサヤ二宮氏を疑うのではなけれども、役所には当然役所の手続きというものがあるもの、それがなくては一粒の米も勝手に扱うことは出来ますまい」彼れ一語、これ一語、通知が無い、手続きが違う、何のかのと言い散らかして、結局「通知のあるまでは、詮議に及び難し。今日はこれで退散・・・・・」ということになりそうな勢い、驚いたのは二宮大先生、たまりかねて霹靂(へきれき)一声、癇癪玉(かんしゃくだま)を爆裂させました。 「アイヤ暫く、何と仰しゃる、通知が無いから米廩(こめぐら)を発(ひら)かぬ?元来貴殿らは今日をいかなる時節と思(おぼ)し召さるる。家老、年寄、用人の職責をそもそも何と心得ておらるる?この時節を知り、職責を思わば、拙者を累(わづら)わすまでもないこと、君命なくても君に代わって、臨機応急の対策を断行し、以て救済を完(まっと)うすべきはず。然るに拙者君命を帯びて到るも、なおかつ言を左右に託して、民生の餓死を見過ごさんとするは何事であるぞ。官僚の弊もここに至って極まれりとやいわん。まことに言語同断である。よし然らば我に考えあり。今や領民食うに物なく、草根木皮(そうこんもくひ)食い尽くして、藁を咬んでいる有様、それをも顧みず、手続きなどに拘泥して、躊躇するならば貴殿がたも飢民同様、飲まず食わずで幾日も幾夜も、小田原評定を続けられよ、拙者も同じく飲まず食わずで、諸君の会議を監視致(いたそう)。この金次郎が目玉の黒い限りにおいては、一人にても退出を許さず、又大事を決定せざる限りは、一滴一粒(りゅう)も飲食を許す申すまじ」と六尺ゆたかの大豪傑が、腕を扼(やく)し、拳を撫し、両手を広げてたちかかる。いかなる天魔鬼神なりとも、つかみ砕かんず勢いなり。さしもの重役ら、気を呑まれて早速降参承服する。大先生は大いに喜び、直ちに米廩(こめぐら)に飛んでゆき、倉庫番が鍵を出さないのを、大声叱咤して鍵を出させ、倉庫(くら)を開かせ、「サアサ殿様のお慈悲、お救恤(すくい)であるぞ、皆来い。皆来い。持ちゆけ、持ちゆけ」これより大先生は門下の親友勘定奉行鵜沢作右衛門(さくえもん)の邸を旅館として、数多(あまた)の属僚人夫を従え、金銭米穀を持ち運ばせ、片っ端から賑恤(しんじゅつ)を行われる。小田原十二万石の町々村々、彼地(あっち)でも「二宮大明神」此地(こっち)でも「二宮大明神」「活神(いきがみ)二宮大明神」「活神二宮大明神」二宮実記発米廩(こめぐらびらき)の一段、ホンの荒筋を述べたのに過ぎませぬ。