『愛を探し求める青年』神は人間の前に永遠に姿を現さない隠れたる神である。神が人間に知られることなく、永遠に沈黙し続けるのであれば、いかなる価値をも神に賦与してもかまわないのではないかと「私」は考える。
1 I. B. Singer―作品にみられる宇宙論的夢想の一特色—A Young Man in Search of Love を中心に— その1 抜粋スピノザ哲学の影響 1 全て存在するものは、神のうちに存在するのであり、神なくしては、何ものも存在し得ないし、また理解されもしない。 2 様態によって私は、実体の諸変容、もしくは他者のうちに在り、それを通じて実体が把握されるものと理解する。 3 事物は神の属性の変容、あるいは神の属性を、ある特定の仕法で表現するところの様態に他ならぬ。 4 延長を持つ事物と思惟する実体とは、神の属性であるのか、神の属性の変容であるか、そのいずれかである。 スピノザ『倫理学』(一) Singerがスピノザ哲学に熱中したのは、1917年に母親と弟との三人で、母方の祖父が住むビルゴライの町に滞在するようになってからのことである。この時期、彼はヘブライ語を学ぶとともに、イディシュ語作家の作品や、イディシュ語の翻訳を通してストリンドベリ、ツルゲーニエフ、トルストイ、チェーホフ、モーパッサンなどの小説を読みあさっている。スピノザに関しては、彼の父親は否定的見解を持ち、その哲学は何物も寄与していないと息子に語っていたようである。しかし、息子にとってスピノザとの出会いは、世界認識上の大きな事件であった。 The Spinoza book created turmoil in my brain. His concept that God is a substance with infinite attributes, that divinity itself must be true to its laws, that there is no free will, no absolute morality and purpose ― fascinated and bewildered me. As I read this book, I felt intoxicated, inspired as I never had been before. It seemed to me that the truths I had been seeking since childhood had at last become apparent. Everything was God ― Warsaw, Bilgoray, the spider in the attic, the water in the well, the clouds in the sky, and the book on my knees. Everything was divine, Everything in the sky, and the book on my knees. Everything was divine, everything was thought and extension. A stone had its stony thoughts. The material being of a star and its thought were two aspects of the same thing. Besides physical and mental attributes, there were innumerable other characteristics through which divinity could be determined. God was eternal, transcending time. スピノザの書物は、僕の心を動揺させた。神は無限の属性を持つ実体であること、神性はそれ自体の法則に従っていること、自由意志は全く存在せず、絶対的な道徳律も目的も存在しないというスピノザの思想は、僕を魅惑すると同時に戸惑わせた。かつて味わったことのない陶酔と霊感を、僕はこの書物を読んで味わった。幼年時代からずっと探し求めてきた真実がついに明らかになったように思われたのだ。万物が神なのだ。ワルシャワも、ビルゴライも、屋根裏に巣を張る蜘蛛も、井戸の水も、空に浮かぶ雲も、膝にのせているこの書物もだ。万物が神性を持ち、万物が延長と思惟なのだ。石には石の思惟があるのだ。恒星のような固物的存在とその思惟は、同一物の二面なのだ。物理的、精神的な属性に加えて、他に無数の特質を通して、神性を測り知ることができるはずだ。神は永遠であり、時間を超越する。(スピノザ著『倫理学』(河出書房, 昭和42年)p.9) スピノザ発見の興奮を、彼は短編集『父の法廷で』の一節で以上のように描いている。スピノザの『倫理学』で展開される一元論=汎神論的世界は、彼が空想世界を自由に、大胆にはばたく足場を提供した点で興味深いものがある。それは、例えば次のような一節によく表れている。 I was exalted; everything seemed good. There was no difference between heaven and earth, the most distant star, and my red hair. My tangled thoughts were divine. The fly alighting on my page had to be there, just as an ocean wave or a planet had to be where it was at a specific time. The most foolish fantasy in my mind had been thought for me by God... Heaven and earth became the same thing. The laws of nature were divine; the true sciences of God were mathematics, physics, and chemistry. My desire to learn intensified. しかし、『愛を探し求める青年』では、スピノザの思想は作家によって独自な思想に変容されていく。即ち、属性の概念は拡大され、個人が人生の道程で遭遇する卑近なものから高貴なものまで全てが神の属性に内包されてしまうのである。 Spinoza had bestowed Him with two known attributes and endless array of unknown ones. But why couldn’t one fantasize many other attributes? Why couldn’t beauty, harmony, growth, expediency, playfulness, humor, will, sex, change, freedom, and caprice represent divine attributes too? スピノザは神に二つの有名な属性と計り知れぬ数々の属性を賦与したが、さらに多くの属性を想い描いてもよいのではないか?創造性は神の属性の一つになり得ないだろうか?美、調和、成熟、賢明さ、滑稽さ、笑い、性、変動、自由、移り気も神の属性であってよいのではないか? この考えの根底には、「私」が神に対して抱く不信の念がある。神の存在は信じるとしても、その神は人間の前に永遠に姿を現さない隠れたる神である。また、神が愛、平和、正義を望んでいるとは「私」には思われない。「私」は、神が無限の属性を備えた実体であろうと、絶対的な盲目の意志であろうと、哲学者達が神をどのように呼ぼうと、神の正義と慈悲に人は頼ることは出来ないと考える。彼は、第一次世界大戦、ボルシェビキ革命、ユダヤ人虐殺、飢饉、疫病で死んだ何千万もの人々を忘れることが出来ない。神は正義と慈愛の神ではなくて力と冷酷の神ではないか。ここで「私」は、懐疑主義や不可知論を経由して、独自の神秘主義に辿り着くのである。神が人間に知られることなく、永遠に沈黙し続けるのであれば、いかなる価値をも神に賦与してもかまわないのではないかと「私」は考える。 My musings brought me no closer to any conclusions regarding the world nor my own duties toward God and man, but I enjoyed _ I might say_philosophical fantasies variations on Spinoza, Kant, Berkeley, and the cabala, along with my own cosmic dreams. Since time and space were merely points of view; since quality, quantity, and even existence itself were categories of reason; and since the thing in itself remained completely concealed, there was room left for metaphysical fantasizing. My God was infinite, eternal, and possessed of endless attributes, properties of which we humans could only grasp a select few. I didn’t agree with Spinoza that all that we know of God are His extension (matter) and His thinking. I was sooner inclined to see in Him other such qualities as wisdom, beauty, power, eternity, and maybe too a kind of mercy that we could never comprehend. The cabalists attributed sex to God, and I more than agreed with them in this concept. God Himself and all His worlds were divided into he and she, male and female, give and take, a lust that no matter how much it was satisfied it could never be sated completely and always wanted more, something new, different. いくら瞑想しても、世界に関して、神や人間に対する私自身の為すべき義務に関して、如何なる結論にも到達することが出来なかったが、私は形而上学的な夢想とでもいってもよいものを味わった。私独自の宇宙論的夢想と共に、スピノザ、カント、バークレイそしてカバラーの思想に基づいて様々に思いを巡らしたのである。時間と空間が単にものの見方の問題にすぎない以上、質、量、存在自体さえ理性の範疇の問題である以上、そして物自体は完全に現象の背後に退いたままである以上、形而上学的幻想を紡ぐ余地が残されたことになる。私が考える神は無限にして永遠の存在であり、無数の属性を備えている。その属性のほんの僅かしか我々人間はとらえることが出来ないのだ。我々が神について知ることはいえば神の延長(物質)と神の思惟だけであるというスピノザの考えに私は同意しなかった。私は神のなかに、叡智、美、力、永遠、そして恐らく我々には絶対に理解することが出来ない一種の慈悲をやがて見るようになっていった。カバリスト達は性を神に帰していたが、この考えに私は大いに同意した。神自身そして神が創造した世界という世界全ては、男性と女性、雄と雌、授与することと受容することに分かたれており、それはどんなに満たされても完全に満たされることがなく常に新しい、自分とは異なった何ものかを求め続ける一つの欲望なのだ。(続く)