久保田豊 長津江発電事業
開発は事業と捉えよ─ 久保田豊に学ぶ開発協力のあり方 ─その4 久保田工業事務所を設立茂木商店の倒産で久保田が受けたショックは大きかった。生活の心配よりも、生甲斐の大きい事業として張り切って取り組んだ天竜川の発電事業にかけた期待が大きかったためである。内務省時代の上司からは、内務省に戻るよう話しがあったが断った。これを機会に、久保田は独立することを考え、英国でビジネス化され始めていた土木技術コンサルタント会社までは無理としても、土木技術の便利屋業なら何とか成立するだろう、考えるよりもやってみることだとして久保田工業事務所を立ち上げた。交渉の末に、丸の内の三菱地所 3 号館に事務所を開設した。一等地に事務所を開いたものの仕事は入らない。大学時代の技術屋を集めて「工人クラブ」を組織して事務所を久保田工業事務所内に置く活動も始めた。(このような活動は、後年「海外コンサルティング企業協会」ECFA)を設立して会長を務める原点になっていたと考えられる。)しかし、事務所は開店休業が続いた。肺侵潤を再発して入院し、半年も身動きがとれなかったためもある。苦労が重なる中で久保田を悩ませたのは、仕事のハリや「夢」が消えそうになることであった。1924 年の総選挙で小橋一太が再選を目指したとき、久保田は選挙運動に駆けつける。選挙資金の捻出にあたり、久保田は日本窒素肥料会社の創業者である野口遵に協力を求めることを思いつき、小橋の紹介状を持って熊本に来ていた野口を宿屋に訪ねた。依頼した資金は桁外れの額であったが、野口はあっさりと承諾し、小橋の当選に寄与することとなった。久保田の仕切りはこれに終わらず、後日、日本窒素が困っていた五ヶ瀬発電所の水利権問題の解決に協力して野口に対する精神的な借りを返したという。久保田は「野口の太っ腹にしみじみ感じさせられた」と初対面の印象を回顧しているが、この時の野口との出会いは選挙協力の話で終わっている4。この選挙運動中に、久保田は朝鮮で水利組合を組織して農業を営んでいる熊本出身の岩永米吉と知り合うことになる。岩永から、朝鮮には土木技術を必要とする仕事が山ほどあると誘われ、岩永と一緒に朝鮮を訪ねることにした。1924 年 5月のことである。久保田はすぐさま京城市にある第 1 級のビルに久保田工業事務所京城出張所の看板を掲げた。何とも早いスピードである。岩永の灌漑事業を手伝う形で事務所を維持しながら、時間ができたときに検討しようと、朝鮮全土の5 万分の一地形図を数百枚買い込んで持ち帰った。4 久保田豊、『開拓者精神を受け継いで:野口さんと私』で回想している。朝鮮の電力開発構想久保田工業事務所に、ある日ぶらりと中老の紳士が現れた。森田一雄で、彼は高校時代に小橋一太と同級、大学では野口遵と電気工学科で同級の技術屋だ。電力会社を辞めたばかりの森田は、「朝鮮に遊びに来いと呼ばれているが、いったついでに水力発電の可能性を探ってみようと思うので資料が無いか」という。久保田は眼を輝かせ、持ち帰っていた5 万分の一地形図を森田に貸し出した。それから半月ほどして森田が久保田に持ち込んだのは、朝鮮最大の河川である鴨緑江の1 つの支流「赴戦江」の開発構想であった。その日から、二人は事務所に缶詰めになって地形図をもとに机上マスタープランを約一月かけて練り上げた。鴨緑江水系、豆満江水系で多くの水力発電計画が組み立てられた。中でも有望とされた計画は、赴戦江と長津江の発電計画で、鴨緑江支流部で貯水し、導水トンネルで日本海側に転流して、高落差を得て発電する事業である。問題は発電した電力を何に使うかである。赴戦江だけでも第 1 発電所の設備容量は130,000 kW、下流の第 2・第 3 発電所を加えると200,000 kW になる。当時の日本の産業規模・電力需要からすると飛び抜けた規模である。そこで二人が考えたことは、大容量で安価な電力で電気化学工業を興すことだった。そして、この事業を日本窒素社長の野口遵に持ち掛けることにした。野口は計画の概要を聞いて二つ返事で賛同し、現地を見に行こうという。技術屋の一徹さを併せ持つ野口は、どんな事業計画でも、必ず実地検分をしていた。野口が朝鮮に進出することを決断した動機は、国内では既成財閥グループによって開発権が押さえられ、その間に割り込む余地がもはや残されていないと考えたからである。このような大事業を二つ返事で決め、若干 34 歳の久保田に設計と工事を託した野口遵(1873-1944)とはどのような人物であったか興味を掻きたてられる。東京帝国大学電気工学科を卒業(1896 年)したころは、日本の産業資本確立期であった。ドイツのシーメンス社日本事務所に入社し、3 年間ほど国際的な仕事のやり方を修得し、その後は電力を有効利用した化学企業を相次いで設立した。先ずカーバイド製造から始め、カーバイドを利用した石灰窒素肥料、硫安、合成硫安へと一貫した製造を手がけ、日本窒素肥料株式会社を軌道に乗せた。硫安の製造には水の電解が必要なことから電力事業への展開を目論んだが、開発権の問題から行き悩み状態にあったところに、久保田から朝鮮で安価な大容量の電力計画が持ち込まれたことになる。これは、野口にとっても大きな転換であった。朝鮮での発電事業をベースに、硫安、硫燐安、硫化燐安といった肥料生産、火薬製品や石炭化学製品、マグネシウム、アルミニウム、亜鉛、製鉄などの金属精錬業、合成ゴム製品、さらに人造石油生産まで工業化を推進している5。一大化学コンビナートを短期間のうちに築き上げてしまった。野口遵は、「事業は天にあり、一業成って次業に及ぶ」といい、「人に率先して国益になる製品の生産に従事する」ともいっている6。久保田は、このような野口から事業家としての「開拓者精神」を学び、自ら実践しようとしたと回顧している。5 柴村羊五、『起業の人・野口遵伝』、有斐社、1981 年開発は事業と捉えよ─ 久保田豊に学ぶ開発協力のあり方 ─その5 第 2 章 戦前の開発事業赴戦江の開発野口遵は「事業は時機を失しないことが大切だ」と事業家としての信条を持っていた。久保田豊は「事業にはスピードが欠かせない」と考えていた。この二人が取り組む事業は、昨今では考えられない程のスピードで進展したが、新天地での事業は多くの難問を抱えながらの取り組みでもあった。朝鮮水電会社を設立して赴戦江を開発する計画を朝鮮総督府に提出して先ず問題となったのは、既に三菱財団が同江の水利権を申請していたことである。三菱財団との争いになったが、久保田は発電した電力を化学工業に使う現実的な事業を計画し、技術的根拠と経済性を良く説明した。時の総督府政務総監は、「種々の論点があろうとも、経済的に有利に開発しようというなら、民間企業は決して損を招く計画を立てる筈がない。取り越し苦労をするより一日も早く開発するほうが朝鮮にとっても有利である」と朝鮮水電会社に水利権を与える英断を下した。広く受益者の立場を考えてのことである。愈々、赴戦江の設計と工事が始まる段階で、久保田は自身にとっても大きな決断を迫られた。それは、久保田工業事務所として設計・工事監理を請負うか、日本窒素肥料会社に籍を移して野口遵と共に電力事業に従事するかの選択を自らに課したのである。占師にまで見てもらうほど悩んだ末に下した自らの決断は、「自分で満足できる事業をするには資金を手当する術も知らなければならない。頼まれた仕事をやるだけでは満足できない。これほどやり甲斐のある仕事はないので、あなたの部下として力のある限り挑戦してみたい」と野口に伝えた。野口は即座に歓迎し、久保田は朝鮮水電に入社することになった。赴戦江の設計・施工は、まさに挑戦の連続であった。準備工事では、既存の朝鮮鉄道を21 km 延長(工事終了後には公共用に供与)、インクライン建設(最急勾配は640/1,000 の難工事)、工事用電源を補完する小水力発電(木管水路で800kW の発電所を8 カ月で完成)、通信設備(180 km)などの工事が急ピッチで進められた。貯水池の重力式コンクリートダムは高さ75.8 m、体積 488,000㎥で、国内で当時に建設されていたダムを大きく上回る規模である。ダム建設の困難は、冬季に零下 40℃まで下がるため、5 月から10 月までしか施工できないことであった。最も困難を伴った工事は、長さ26,580 m の高圧トンネルの設計・施工である。初め円形で設計したが施工が困難として馬蹄形に変更したが、外国にも同種の施工事例がなく、久保田は膨大な解析で高圧トンネルのコンクリート巻立強度を計算しなければならなかった(博士論文になる程の解析だったという)。高圧トンネルは、鉄筋コンクリート巻き立てとグラウト工法を併用して施工した。14 本の堅坑(深さ170 m に達する)、4 本の横坑と3 本の斜坑を掘っての工事には九州の炭鉱から掘削機や専門家も動員された。何度も湧水に悩まされながらも、この難工事をやり遂げている。水圧鉄管路(ペンストック)も長さ2,830 m、落差 737 m で大きな水圧がかかる。アメリカでの事例を照会して、ポーランドのメーカーに発注した。第 1 発電所の水車はホイト社、発電機はシーメンス社の製品が使用されたのは、このような高落差のペルトン型発電機の経験が日本にはなく、時間的余裕がなかったことによる。変圧器は国産で革新的な規模の製品であった 8。第 1 発電所(130,000 kW)に加えて、第2 発電所(41,400 kW)、第 3 発電所(18,000kW)も並行して設計・施工が進められた。更に、初年度の発電が渇水にみまわれたこともあって、第 4 発電所(11,700 kW)の工事も追加された。合計で200,700 kW の発電事業である 9。赴戦江の設計・施工は、時間との勝負でもあった。日本海に面した興南では、硫安(40 万トン)、グリセリン、苛性ソーダ工場の建設が同時に開始されており、電力供給を工場の完成に間に合わせる必要があったためである。突貫工事が続けられたが、運悪く台風が襲来(1928 年 7 月)し、発電所工事は予定よりも1 年間ほど遅れて1932年に完成し、発電開始と同時に興南の化学工場群は操業を開始した。赴戦江第 1 発電所は、朝鮮戦争中の1952 年に空爆され破損したが、水車はチェコの支援と自国技術で取替え、発電機はコイルを巻き替え、鉄管はリベットから溶接に代えて修復し、1956 年には運転を再開している。また、導水トンネルは、戦後 5 回ほどコンクリート巻付けなどの補修を行ったとのことである。1992 年に筆者が訪問した時点(完成後 60 年)では、24 時間運転が続けられ、年間平均発生電力は15 億 kWh とのことであった。現時点からすると、赴戦江発電所は75 年余りにわたって運転されていることになる。開発は事業と捉えよ─ 久保田豊に学ぶ開発協力のあり方 ─その6 長津江発電事業赴戦江発電所が完成し興南工場の生産が始まったが、赴戦江の西に位置する長津江(ちょうしんこう)を開発し、今度は工場用電力だけでなく平壌への電力供給を含めた電力供給網を整備したいと久保田は考えた。しかし、長津江開発の水利権は赴戦江と同様に三菱財団が所有していた。久保田は、長津江発電の経済的有利性を説明して野口遵を口説き、総督府をも説得させて、長津江水電会社の設立に漕ぎ着けた。野口が社長、久保田が常務を務めることなった。久保田は設計・施工の総指揮を執るにあたり、現場近くに本社を構え、病院・学校・郵便局・警察や集合暖房施設なども整備し、自らも家族を連れて移り住んだ。開発事業に取り組む意気込みを自ら示してのことである。工事は、赴戦江と同様に、北流する長津江に重力式ダム(堤体積:565,000 ㎥)を建設して貯水し(有効貯水量:8.4 億㎥)、23,600 m の導水トンネルで日本海側に転流して高落差を得て、第 1 発電所(144,000 kW)、第 2 発電所(112,000 kW)、第 3 発電所(42,000 kW)、第 4 発電所(36,000 kW)、合計して334,000 kW を発電する事業である。発生電力量の半分は、一般公共用に供することとされた。赴戦江で蓄積した設計・施工の技術だけでなく建設機械も利用できたので、工事は概ね順調に進捗して、第 1・第 2 発電所は1936 年に(導水トンネルを含む第 1 発電所の工事期間は4 年弱)、第 3・第 4 発電所も1938 年までに完成している。長津江発電所では、水車・発電機・変圧器ともに日本にない規模のものであったが、全て国産で対応した(東京芝浦電気製)。野口も久保田も、出来る限り国産品を活用する考えで、メーカーにも大容量製品の開発を叱咤激励していた 10。発電所の建設と並行して、長津江-平壌-京城を結ぶ400 kmの高圧送電線(154kV)の建設が進められ、安価な電力が公共用にも供されることとなった。ただ、公共用電力は、合意された供給量の半分までの需要にしか達していなかったので、余剰電力は興南の肥料工場他の増設に回された。日本国内に比べて半値以下の安い電力を利用し、しかも肥料の国内価格が漸騰したこともあって、野口の事業は絶好調ともいえる勢いであった。長津江水電会社は、完成後に「朝鮮水力電気株式会社」と社名を変更し、資本金も2,000 万円から7,000 万円に増資して、本社を京城に置くことになった。同本社は、朝鮮送電、鴨緑江水電、朝鮮電業を含め、朝鮮の電気産業の経営センターとして機能することとなった。1992 年の時点では、長津江第 5 発電 所(1961 年完 成、10,000 kW)、第6 発電所(1970 年完成、5,000 kW)が増設されている。また、ダムを1 m嵩上げし(1965 年)、渓流取水を8 ヶ所増やして、年間発生電力量は24 億kWh から約 28 億 kWh に増加したとのことである。長津江発電所も1952年 6 月の空爆で破壊されたが、1958年に再建されて以来、主要な電力供給源としての役割を果たしている。長津江発電所の完成からも、既に70 年余りが経っている。続けて虚川江開発事業へ朝鮮の電力需要の増大に応えるため、長津江発電所の完成前の1937 年に、次の虚川江発電事業に着手している。虚川江も、赴戦江・長津江と同様に、標高1,000 m を越える高原を北に向かって流下する虚川江とその支流の水を集めて貯水し、背稜山脈を導水トンネル(長さ11,600 m)で貫き、日本海側に流域変更して高落差(870 m)を得て発電する事業である。第 1 発電所(145,000 kW)、第 2 発電所(70,000 kW)、第 3 発電所(58,000 kW)、第 4 発電所(66,000 kW)まで建設され、総設備容量は339,000 kW にのぼる。第 1 発電所は、工事開始から僅か3 年で完成させた(1940 年)。久保田は、創意工夫によって「1 日でも早く完成すればその分の収益が増える」「事業にはスピードが大切である」 、 との信条を常に実践していた。この事業でも、久保田は数々の技術的難問を緻密な分析、最新の技法と自らの決断で解決している。例えば、導水トンネルの掘削では、水を多く含んだ砂礫層に遭遇したが、40 m の竪坑を掘り、砂礫層の底の岩盤にサイフォンを通し、接続部にエアパイプを設ける工法を編み出し成功させている。また、ダム・コンクリートの打設では、鉄桟橋を架設してシュート打設を行ない、当時としては珍しいクレーンも併用して工事が進められた。水車・発電機は、長津江と同様に全て国産品を使用している。虚川江発電所の電力は、およそ2/3(220,000 kW)が公共電力として供給され、残りが興南の化学工場群に供給された。また、建設資材の輸送のため建設された鉄道(広軌で延長65 km)は公共用にも供され、地域の発展にも寄与することとなった。赴戦江から虚川江に至る発電事業で、久保田は安価で安定した電力を開発し、民間化学工業の創業と拡大に資する一方で、公共サービスを提供する電力会社を民間事業として経営するという壮大な事業を推し進めたことになる。また、事業実施においては地域住民の利便も考慮し、鉄道など公共インフラの整備にも貢献することを常に念頭においていた。このような開発事業を、久保田は30 歳代後半から40 歳代に実現していたのである。写真は虚川江第一発電所