努力の結果を見るまでには、私達は皆、待たねばなりません。私も自分の小さい仕事の結果を生きているうちに見ようと期待することはできません。しかも今から一百年の後にはこの国においてまくことを許された種から「何か目に見えるもの」が生まれることでしょう。
ベルあて第926書簡で、内村鑑三は「努力の結果を見るまでには、私達は皆、待たねばなりません。私も自分の小さい仕事の結果を生きているうちに見ようと期待することはできません。しかも今から一百年の後にはこの国においてまくことを許された種から「何か目に見えるもの」が生まれることでしょう。」と言っている。今年がほぼその100年後に当たる。内村鑑三があてた書簡の平信徒の相手が、その後どのような人生を送ったのか、また信仰を保持し、更に弘めたのか、現在その地にまかれた信仰は「何か目に見えるもの」があるのか非常に興味深い課題である。内村鑑三は自らの人生を実験と考えた、100年後彼のまいた種がどう実ったのか検証する作業は面白く興味深い🎵内村鑑三書簡第926信(英文封書)ミネアポリス D・C・ベルあて1916年8月14日親愛なるベルさん7月17日付ご懇書を拝見してホッとしました。長らくお便りに接し得ませんでしたため、私の反アメリカ主義がついにアナタを他人にしてしまい、もはやアナタのなつかしいお言葉に接し得ないのではあるまいか、とさえ考えるに至りました。しかしそんな事のあろうはずはありませんでした。古い友はシッカと立っており、その信頼の変わるのを恐れるには及びませんでした。最近ある山中でアナタの上を思いめぐらしていましたところ、箴言第18章24節(*1)が新しい力をもって私の心をうち、アナタに対して「自分が友らしく」ふるまわなかったことを悲しみました。「兄弟よりもたのもしい友」は、まことに神が人にたまう最大の贈り物であり、われわれはあらゆる方法をつくしてその友を守りつづけなければなりません。当方はすべて順調にはこんでいます。仕事の上では、誰の上にも見られるように、多少の失望もありますが、しかしすべての損失をつぐなって余りある希望と成功とがあります。最上のニュースは祐之が高等学校へ入学したことです。これは帝国大学の医科へつながっており、神もし私達一同を恵みたもうならば、七年の後には、彼は若い医学者となって卒業し、悩める人類の救済に彼の分をつくし得るのです。入学試験は実にはげしく、志願者は約150人でたいてい彼より年長者であり、しかも新たに入学しうる者の数はわずか35人なので、その競争は物すごく激しくありました。しかし彼は無事入学しましたので、友人一同の間に一大歓声があがりました。彼は目下すこぶる幸福で、再び「運動でも勉強でも第1等」たらんと、身体をきたえています。別封で私の雑誌の最新号を一部お送りしました。同号中の英文には、私の反アメリカ主義は盛られていないのみか、アナタご自身の信仰をよくあらわしていると信じます。私の反アメリカ主義は、もとをただせば、反現世主義、すなわち反近代主義です。私の母校のアマスト大学でさえ、近代の人道主義に移ってしまったことを知り、心から悲しく思います。アマストがそのモットーとして、詩人ホープの「人類が何よりもまず究めなければならないものは人間である」(*2)との言をとりあげた時、「キリストこそすべてのすべてなり」(*3)との古い信仰を忘れ去り、その新しい、若い「実業家風」の総理は、人間をキリストにおきかえて、ありし日の「宣教師養成」大学をば、低い低い水準の学校にしてしまったのです。この「事業精神」こそは、近代アメリカ流キリスト教のあらゆる罪悪の根源であると思います。私はそれを、アメリカの諸教会から当地に送られる宣教師の間にハッキリと認めます。彼らは異教徒を回心させる「方法」は知っているでしょうが、しかしキリスト教の「本質」が何であるかについてほとんど、いな全く知らないのではないかと思います。そして何事であっても、彼らと関係を断っていても、私は何一つ損はしないのです。とはあれ、神は天にいましたもうてすべて善しです。ヨーロッパにおけるこの恐ろしい非キリスト教的戦争さえーこれもやがてすべて善に終わることでしょうー私達の主なる救い主イエス・キリストの栄光をあげるものです。しかし同時に、私は厳に中立の立場を守っている結果として、ドイツ人の友人たちと、二、三のイギリス人の友人とを失ってしまいました。私は偽善的なジョン・ブル主義を、プロシャの軍国主義同様に嫌います。「世界の商権」維持のために戦う国民は、チュートン民族であれ、アングロサクソン民族であれ、結局高貴な国民ではありません。私は戦争に何の興味も感じ得ず、しかも今次の大戦は、一番無意味な戦争だと思います。しかし私がこの分かりきった真理を彼らに告げますと、ドイツ人とイギリス人の友人は、私に向かって怒り出します。ミネアポリス・キリスト教青年会の歴史に関するアナタの記事は、非常な興味をもって拝見しました。努力の結果を見るまでには、私達は皆、待たねばなりません。私も自分の小さい仕事の結果を生きているうちに見ようと期待することはできません。しかも今から一百年の後にはこの国においてまくことを許された種から「何か目に見えるもの」が生まれることでしょう。仏教が日本に根をおろすには700年かかりました。ゆえに70年でキリスト教がこの国に根をおろすのを見ることはできません。少なくとも2世紀はかかることでしょう。それゆえ私達は多くのアメリカの宣教師がやっているように、一日のうちに一国民を回心させようとはせず、希望のうちに種をまきつづけます。神はおびただしい時間を持ちたまいますがゆえに、私達もまたそれにならってー墓の中でー神のご計画の成らんことを待つべく、時を得るも時を得ざるも、神の恩恵の福音を説きつづけます。願わくは神の平安、あなたとともにあらんことを。おひまの節は御便りをいただきたくあります。アナタの古い友なる 内村鑑三*1 箴言(口語訳)第18章24節 世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。*2 人間論 上田勤訳 1950(岩波文庫)(p.37-56)書簡二An Essay on Man: Epistle II By Alexander Pope I. Know then thyself, presume not God to scan; The proper study of mankind is man. Plac'd on this isthmus of a middle state, A being darkly wise, and rudely great: With too much knowledge for the sceptic side, With too much weakness for the stoic's pride, He hangs between; in doubt to act, or rest; In doubt to deem himself a god, or beast; In doubt his mind or body to prefer; Born but to die, and reas'ning but to err; Alike in ignorance, his reason such, Whether he thinks too little, or too much: Chaos of thought and passion, all confus'd; Still by himself abus'd, or disabus'd; Created half to rise, and half to fall; Great lord of all things, yet a prey to all; Sole judge of truth, in endless error hurl'd: The glory, jest, and riddle of the world! 従って汝自身を知るがよい。神の謎を解くなどと思いあがるな。人間の正しい研究題目は人間である。この中間状態という狭い地域に置かれた、先は見えないながら賢く、粗削りながらも偉大な存在。懐疑家の側に立つには知識がありすぎ、禁欲家の誇りを持つには弱すぎ、中間に逡巡して、挙措(きょそ)進退に自信が持てない。神にもなれず、獣とも思えず、精神と肉体の選択もつきかね、生れては死に、判断は誤謬ばかり。乏しい彼の理性では、考えの多少を問わず、無智であることに変りはない。思想と感情とが混沌として乱雑を極め、いつも自ら欺いたり、悟ったり、半ばは上を目指し、半ばは下を見、万物の霊長でありながら、万物の餌食となり、真理を裁く唯一の存在でありながら、絶えず誤謬に投げこまれる。まことに世界の壮観で、お笑い草で、おまけに謎でもある!*3 コリント一15:28「すべてのものがキリストに従わせられる時、その時には御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。それは、神がすべてのものにおいてすべてとなるためである。」(岩波委員会〔青野太潮〕訳)