「磐田市史」に見る 前島密(来助)
「磐田市史」に見る 前島密(来助)「磐田市史」通史編下巻p.33中泉奉行所の設置 明治2年(1868)正月13日、府中藩は領内11か所に奉行・添奉行を設置した。中泉奉行所は前嶋来助(後の前島密)で、当時35歳の若さであった。「駿府各所分配姓名録」には中泉奉行 前嶋来助 添奉行 淵辺徳蔵(*)同支配調役 高橋陽之助 長兵庫 山岡精二郎景連 萩原保二郎同調役並 天野忠三郎 高林新右衛門 塚原隣平 川目健次郎 大塚東作 宮村新右衛門同定役 前嶋又三郎 取田権太郎 伊藤源十郎 脇坂米次郎同下役 渡辺庄次郎 外ニ分配士族七百十一名 中泉奉行前島密をはじめ、諸役人は同月(明治2年1月)中泉に着任し、元中泉代官の陣屋で執務にあたった。前島は一般民政のほか、無禄移住の徳川藩士士族700余名の授産の道も講じなければならなかった。*淵辺徳蔵(ふちべ-とくぞう) 幕臣。両都(江戸,大坂)両港(新潟,兵庫)開市開港延期の件で,先発していた遣欧使節(正使は竹内保徳(やすのり))に訓令をつたえるため勘定格に任命され,文久2年(1862)イギリス公使オールコックに同行して通詞森山多吉郎とともに横浜をたつ。合流後は遣欧使節の随員としてヨーロッパ各地を歴訪した。・文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)は、江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名となり、さらに後日通訳(蘭語、英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。・1862年、ロンドン万国博覧会が開催された。世界約70カ国からの出品があり、当時イギリスの在日総領事だったラザフォード・オールコックは女王から外交官として範例とすべき日本美術および美術工芸品を手に入れるように指示を受ける。そこでオールコックは、彼が以前から集めていた日本のコレクションをロンドン万国博覧会に展示するため、614点の品物のカタログを自ら準備し、本国へ送った。漆器、わら細工、籠、陶磁器、冶金製品、和紙、革製品、織物、彫刻、絵画、挿絵、版画、機械、教育用の作品と器具、玩具・・・。幕府からは紙製品と日本の硬貨一組が提供された。万博開会式当日日本の使節団も参加した。日本の使節団は羽織袴で登場し、服装や髪型などは奇異の目で見られ、また生真面目で礼儀正しい振る舞いは感心され西洋人の注目の的となる。日本の出品物は大好評で、実は1855年のパリ万国博覧会でオランダが日本の家具、屏風、陶磁器、版画、書物を紹介しており、高い芸術性と精緻な技術に注目されており、ロンドン万国博覧会での出品で本格的ジャポニスム流行のきざしが見えてくることとなる。ところが、日本の使節団には不評であった。淵辺徳蔵は『欧行日記』に「全く骨董品の如く雑具」だと嘆き、「かくの如き粗物のみを出せしなり」と書き残している。💛これまで注目されていないが、あるいは、ヨーロッパを直接見聞してきた淵辺徳蔵の体験談は中泉救院設置のおいて重要な要素なのかもしれない。前島の告諭には西洋の教会における救貧活動がまるで見てきたように書かれているが、おそらくは淵辺徳蔵の体験した文久遣欧使節の折の観察が挿入されているように思料される。p.35 はじめ、中泉に移住を予定された者は700余戸であったが、中途で方向を変える者もあって、実際に移住した者は300戸程度であったらしい(『中泉町誌』)これらのうちにはさらに転住した者もあり、明治6年3月の調べでは、中泉村は158戸に減少していた。(『磐田市誌』下巻)。約300戸の中泉村に、無禄士族が大挙移住するとなれば、真っ先に問題になるのは彼らを収容すべき住宅である。前島は中泉の有力者を説いて若干の家屋新築費を出させ、御殿に数十戸の長屋を建設した。(前島密自伝)