鳥居信平も藍作に代わる稲作や代替作物転換のために徳島県に招かれた
阿波郡図柿島村板名用水*柿島村(かきしまそん)と立江村、徳島県全図に落とした。鳥居信平の活躍がより立体的に見えてくる。「大正3年の紀年大正耕地整理組合の発足により、柿原地区の185町が水田化され、用水の取水のために柿原堰が完成した。全長1.15キロメートルである。」板名用水(いたなようすい)は、徳島県阿波市吉野町柿原で吉野川から取水し、同県板野郡板野町まで流れる用水路である。一部は宮川内谷川に、一部は吉野川に合流する。創立当時の灌漑地域が板野郡と名西郡にまたがっており、その頭文字の「板」と「名」を取って命名された吉野川左岸の現上板町一帯の平地は、藍作を中心とする畑作地帯であった。しかし明治中期には安価なインド産藍や合成染料の輸入によって、藍の価格が低迷し、藍作の先行きが暗くなった。さらに1904年に始まった日露戦争により、国を挙げての食糧増産の機運が高まり、豊富な吉野川の水量を生かして米作への転換が企図された[2]。1904年(明治37年)から計画は進められ、翌1905年水利組合創設[3]。1906年(明治39年)起工し、1908年(明治41年)通水、1912年(大正元年)に支線を含む全工事が完了した[4]。当時の灌漑面積は725町3反(約719ha)であり、総工事費は235万7500円だった[4]。1980年時点での関係面積は914.0ha[5]、2005年時点での受益面積は808haである鳥居信平は1912(明治45)年徳島県技師となり、1914(大正3)年台湾製糖に招請された。「麻名用水」「板名用水」完了時であり、あるいは藍作から稲作に移行する区画整理事業を担っていた可能性はある。麻名用水と井内恭太郎(吉野川市)(表 6 の番号 2)徳島県屈指の大農業用水「麻名用水」(写真1)が完成したのが明治 45 年であり、着工が明治 39年であるから、実に足かせ 7 年にも及ぶ大事業(写真2)である。吉野川の右岸(南岸)の鴨島町から石井町にまたがって、南北二つの幹線と多くの支線水路が設けられ、1,250 町歩あまり(大正 3年調べ)の水田を灌漑できるようになった。阿波藍が明治 30 年代約 15,000ha をピークに、ドイツから安価な化学染料が大量に輸入されるようになると、たちまち阿波藍の市場を奪いとり衰退し、その後は、藍作から稲作への転換のため、堤防や用水路の整備が強く求められることとなった。吉野川の明治 40 年からの第一期改修や麻名用水がその整備である。幕末から明治にかけて、吉野川の利水を提唱した人に、後藤庄助、庄野太郎、豊岡茘墩らがいた。彼らは吉野川流域に大規模な用水路を開削することにより藍作から米作への転換をはかり、農業経営を安定したものにしたいと願っていたが、彼らの壮大な構想は容易に実現には至らなかった。井内恭太郎は、明治 30 年、麻植郡長として赴任し、麻名用水の構想を発案し、井内らは再三にわたり用水案の実現を説いてまわったが、農民は聞く耳をもたなかった。この時の様子が麻名用水碑に刻まれている。明治 37 年にこの地域一帯が大干ばつに襲われ、これがきっかけとなって、明治 38 年には「紀念麻名普通水利組合」が結成され、管理者に井内恭太郎が就任し工事を完成させた。のち美馬、名西郡長となり、板名用水(明治 45 年)建設にも努力した。💛「東大のディープな日本史」を読むと、江戸末期に諸外国と締結した不平等条約で関税自主権がなかったために、国産藍産業も守れず、インド産の安い藍やドイツの化学染料に駆逐された。鳥居信平も藍作に代わる稲作や代替作物転換のために徳島県に招かれたということのようだ。関税自主権は日露戦争後で世界が日本の実力を認めるまで回復できなかった。鈴木藤三郎が砂糖を国産化しようとした動機もまた砂糖の輸入を減らし国の役に立とうという動機であった。近代日本を読み解くうえで不平等条約改正は歴史の底流を動かす原動力であったことがわかってくる。