暗いと不平をいうよりもすすんで明かりをつけましょう
「マザーテレサ 愛のこころ最後の祈り」からアボリジニーのある居住地に、年配の男性がいました。その貧しい老人くらいひどい境遇を、あなたがたはいままで見たことはないと、私は断言できます。彼はだれからも完全に無視されていました。その家は散らかりほうだいで、汚れていました。「家の掃除と洗濯をさせてくださいませんか。 それからベッドをととのえさせてください。」わたしは彼に言いました。「これでいいんだ。ほっといてくれ。」彼は答えました。「もし、わたしにやらせてくれたなら、もう少しましになりますよ」もう一度、わたしが言うと、彼はとうとう納得しました。そこで掃除と洗濯をすることができたのです。わたしが部屋を片付けていると、ほこりまみれのきれいなランプを見つけました。彼が最後にそれに明かりをともしてからどれだけ時間がたったのかは、神のみぞ知るです。わたしは言いました。「ランプをともさないのですか。もう使わないのですか」「ああ、だれも来やしない。明かりをつける必要なんてもうないんだ。いったいだれのためにつけろっていうんだね。」「もしシスターが来たら、毎晩それをつけてくれますか」「もちろんだとも」彼はうなづきました。その日から、シスターたちは、毎晩彼のもとを訪れることを約束しました。シスターたちはランプを磨き、そして、毎晩それに火をともしたのです。二年が過ぎました。わたしはその人のことをすっかり忘れていましたが、彼からこんなメッセージが届きました。「わたしの人生にともしてくれた明かりは、まだ輝いていると、わが友に伝えてくれ」これはとても小さなことです。でも、わたしたちはよく小さなことをおろそかにしてしまうのです。」これを読んでいて「ハヤット神父」という聖パウロの言葉が浮かんだ。昔、朝ラジオからよく流れてきたものだ。「カトリック教会がお送りする心のともしび」について調べると ジェームス・ハヤット神父が創設したものだという。ハヤット神父は1922年、アメリカ合衆国のアイダホ州ウォラスで生まれる。1949年に司祭に叙階された。同年8月に来日。1950年に京都府京都市のカトリック河原町教会の助任司祭となる。1952年、「カトリック善き牧者の会を創設し、「心のともしび運動」を始める。1957年、ハヤット神父は私財を投じ、ラジオ京都放送でラジオ版「心のともしび」の放送を開始。そして、放送費用を確保するために半年の休暇をとり、アメリカ合衆国ヘ帰国。故郷のシアトルにある教会を巡り、援助会員を募集し献金を集めたとある。ジェームス・ハヤット神父との対談(1981年放送、日本テレビ)この言葉はマザーが愛した言葉だという。暗いと不平を言うよりも自ら進んで明かりを灯しなさい。マザー・テレサの言葉の「暗いと不平をいうよりもすすんで明かりをつけましょう」に関するものを検索したら次の英文が出て来た。〇mother Theresa puts it; “when you walk into a dark room holding unlit candles, and you find that there is darkness inside the room, you don’t complain about the darkness; you light the candle and ask your neighbor to also light a candle and lo and behold when all of us have lighted our candles, the room will be consumed in light. How do we spend our days? Do we spend them complaining about the things that do not work or we spend them trying in our own small way to make this country better."you light the candle and ask your neighbor to also light a candle.自分のcandleに明かりをつけるだけでなく、隣人やその他の人にも明かりをつけさせましょう。と自分一人ではなく多くの人々に呼びかけましょうと言われている。How do we spend our days? we spend them trying in our own small way to make this country better.私たちがこの小さな道を実践することで、この国がもっとよりよくするために私たちの一日一日を使ったほうがいいと思いませんかと実践を呼びかけているのである。ジェームス・ハヤット神父はまさにその実践を生涯を通して費やされたのである。