14 秋くれば山田の稲を鳥と猿猪(しし)と夜昼争いにけり
秋くれば山田の稲を鳥と猿 猪(しし)と夜昼争いにけり一昨年母が久しぶりに来たので、弟と三人で日光に行った。ホテルに一泊し、翌朝、東照宮まで行こうとホテルでタクシーを頼んだ。タクシーに乗り込むと、運転手の方がもし中禅寺湖のほうまで行かれるのでしたら、一日いくらで行きますよと話を持ちかけてきた。母は運転手の人となりが気に入ったようで一日ご一緒することになった。そこでまず中禅寺までいろは坂を登っていった。母は若い頃、祖父に「日光を見ずして結構ということなかれ」と言われて日光に来たことがあるという。峠で一休みしたときのことである。猿の群れが徘徊している。餌はやらないようにと看板が立っている。遠くに見える般若の滝やらを背景にして記念写真をとって、さあ車に乗り込もうとしたら、隣にいたカップルの女性がキャッと叫んだ。見ると女性が下げていたビニール袋ごと猿がかっぱらって車の上で鎮座して中のお菓子を取り出してむしゃむしゃと食べている。尊徳先生のこの歌を詠んでいたら、そんなことを思い出した。この歌はこのままではわかりにくい。秋が来れば稲が実り、秋の実りを鳥、猿、猪が争うというだけである。二宮先生語録にその解説がのっている。【語録105】太古の世は、人道がまだ明らかでなく、人類は鳥獣と一緒に住んで、昼と鳴く夜となく食べ物をあさり、争奪を事としていた。一日として安心な生活ができなかった。我々の祖宗はこのありさまを哀れに思って、始めて推譲の道を立て、農業ということを教えられた。それで五穀が実って衣食が豊かになり、人道は明らかに定まって部族という部族が安らかに治まったのだ。ところが世もくだった今日では、民情がどうかすると太古の状態に戻りやすくなっていて、秋の末、人の稲田が実るのを見るとむやみに欲しくなるし、夏の初め、人の麦田が熟すのを見るとまた取りたくなる。まったくの話が、自分で作らずにいてどうして刈り取れるものか。もし取ったとしたら、それこそ鳥獣争奪の道だ。だから秋になって稲を刈ることができなかったら、自分で作らなかったのが過ちだと悟って麦を蒔くがよい。初夏になって麦を取り入れることができなかったら、稲を植えるがよい。そうすれば稲でも麦でも半年後にはきっと収穫ができるのだ。実際まず自分で作り育てて、それからこれを刈り取るということこそ、人倫推譲の道なのだ。衰えた国の君主も人民もよくよくこの道理を察しなければならない。