もう一つの最後の授業~2
--【木谷ポルソッタ倶楽部】-----------------<2008/3/11>---- ■ もうひとつの「最後の授業」~2 ■(朝日新聞より)------------------------------------------- 朝日新聞の記事「最後の授業」の話は続く。せつない、辛い、どうしようもない、そうなった時、人はどう生きるのか。しみじみと考えさせられた延地さんの話だった。 「撤退しましょう」主治医の言葉に治療の中止を決意し、一人暮らしの不自由から自宅を離れ、延地さんはホテルに宿泊しながらホスピスへの入所を待っていた。 そのような時、竹見台中の山邊義毅校長から頼まれた。 「卒業する子に命について語ってほしい」山邊校長は延地さんが校長時代の教頭だった。 そして、三年生は一年生の二学期まで、延地さんの「最後の教え子」だった。 その日、二十六歳で赴任した中学校での経験を延地さんは「教師としての原点」として語った。 当時は校内暴力の全盛期で、「市内一」と言われるほど荒れていた。若い男性教師らは生徒に教室から引きずり出されて殴られ、辞めたり「不登校」になったりしていた。 産んだばかりの娘を校長室のソファに寝かせ、学校や教室に寄りつかない生徒たちを追いかけ回した。 「そのやんちゃな子たちが五十歳近くになって、 いま、洗濯とか私の身の回りの世話をしてくれる。 大変だったけど、楽しかった」 ひとり娘のもと子さんのことも話した。 私立高二年の時、同級生らになじめず、もと子さんは言った。「今日から学校に行かへん」親としては悩んだが、延地さんは中退を認めた。 もと子さんは大検に合格して大学に進んだものの、十一年前、自宅で卒業論文を書いた後、眠ったまま息を引き取った。突然死だった。 その時、延地さんは思ったそうだ。 「子どもの分まで生きなくちゃ、 そう思っていたのに、自分ががんになって、悔しくて悔しくて......」 延地さんは声をしぼるかのようにせつせつと話した。それは悔しかっただろう。「悔しくて悔しくて」に力が込められていた。生徒達の涙声に教室内は静まった。 延地さんは病気になって気づいたそうだ。 「自分はひとりではない」 教師仲間、大学時代の友人、教え子、八百人以上が見舞いにきてくれた。 「最後の授業」の最後に、延地さんは訴えかけるように話した。 「がんと闘っている人は大勢いる。 私の使命は希望を失わずに生きること。 私の命がなくなった時、話を聞いてくれた人の中に火種が残ってくれたら、 私は第二の人生を生きられる」 延地さんの話を読みながら、私は大瀬校長先生が言われた「命のバトン」を思い出していた。生きてきたこと、生きていく想いを伝えていくことが大切なんだよな。 そして、詩人川崎洋さんの詩を朗読して、延地さんは話を終えた。 さなぎからかえったばかりの蝶が うまれたばかりの陽炎の中で揺れる あの花は きのうはまだ蕾だった 海を渡ってきた新しい風がほら 踊りながら走ってくる 自然はいつも新しい きょうも新しいめぐり合いがあり まっさらの愛が 次々に生まれ いま初めて歌われる歌がある いつも いつも 新しいいのちを生きよう いま始まる新しいいま (川崎裕「いま始まる新しいいま」抜粋) 生徒たちは、目を真っ赤にした子も、延地さんをまっすぐ見つめて聞いていた。 元生徒会長の覚前雄登さんは目を赤くしていた。「いつも笑顔を絶やさなかった先生が、あんなに重い病気だとは知らなかった。 自分たちに全部話してくれてうれしかった」 (川崎裕「いま始まる新しいいま」抜粋) 生徒たちは、目を真っ赤にした子も、延地さんをまっすぐ見つめて聞いていた。 元生徒会長の覚前雄登さんは目を赤くしていた。「いつも笑顔を絶やさなかった先生が、あんなに重い病気だとは知らなかった。 自分たちに全部話してくれてうれしかった」 杉山春菜さんは涙を何度も拭いていた。「今はすぐ理解できないかも知れないけど、託されたんだなと感じた」 延地さんは先生らにこう言って学校を後にしたという。 「久しぶりに子どもたちの前で話せて楽しかった。私も勇気をもらった」 私は延地さんや大瀬さんのように強くは生きてはいけない。強くは生きていけないけれど、その気持ちだけは持つように努力したいと思う。 私の、これから、これからの人生、何ができるかわからない。ただ、生きていく「想い」だけは大切にしたいと考える。 三月、季節は春が近づいている。昨日は蕾だった花が咲いてくれる。 (終) ------------------------------- 木谷 文弘(きたに・ふみひろ)★木谷さんはガンで亡くなった。この文を綴るとき、自ら闘病し生きようとしていた。「私は・・・強くは生きられない」とあるが、いやいや木谷さんらしい生き方を全うされました。有難う感謝します。