松島授三郎小伝 松島吉平君の伝
松島授三郎小伝(「報徳」より) 松島授三郎は至誠軒練精と号して静岡県の西部地区における三遠農学社長として頗る功績のあった篤志家である。而して在世中は東海道で屈指の老農として雄名をはせ、かつ報徳実践の達人としてその徳風は永く今日に遺芳を伝えている。 授三郎は天保七年(1836年)静岡県掛川市掛川町に呱々の声をあげた。父は加藤武左衛門といって授三郎はその四男である。 授三郎は天保十一年五歳の時、遠州豊田郡羽鳥村(現在浜松市東区豊町)の人、松島藤右衛門の養子となって、その家に養われた。 松島家は代々「薬舗」を業としていて、そのかたわら農業をいとなんでいたのだが、嘉永三年十五歳の年に父の藤右衛門が過って木から墜落してついに半身不随の身となってしまった。 かくして父藤右衛門はその後十二年にわたって起居の自由を失うに至った。その当時授三郎は若年であったけれども、意を決して父に代わって一家経営にあたり、風雨寒暑をいとわず専ら農耕に力をいたし、かたわら家業の薬舗のためにつとめた。 然るに安政三年正月(1856年)授三郎二十一歳の時、遠州への報徳伝道の先達である安居院義道先生兄弟がちょうど浜松在、下石田の神谷與平治方を訪れ、報徳の道を講じつつあることを伝え聞いて、授三郎はすなわち神谷家を訪問して、神谷さんに紹介してもらって、始めて安居院、浅田両先生に師事し、報徳の門に入り、深く心を傾けてこれをきわめ、つぶさに興国安民の良法を学び、得るところが多かった。 その後浅田有信先生は伊勢に歿し、ついで文久三年(1863年)安居院先生もまた浜松市において歿したので、その後は掛川市成滝の平岩佐兵衛や報徳教師荒木由蔵などに師事して、よく報徳の道を研究すること、前後十八年に及び、大いに悟るところがあり、ついに報徳と農業の実践を己の任とするに至った。 ここにおいて松島授三郎の説くところは、常に実理によってこれを経験に徹し、これを古今に鑑みて、確実にして動かすべからざるものをとって論ずる故に、授三郎が一度口を開けば、架空の妄説を唱えるものをして、ほとんど愧死(きし)せしめるに足るものがあった。 明治元年(1868年)授三郎三十三歳のころ、霖雨が降り続いて、居村の東を流れているところの大河である天竜川の堤防がしきりに決壊して、授三郎の居村をはじめ、付近一帯に洪水が氾濫して、被害は数十か村に及んだ。 このためいたるところ、良田が変じて石河原となり、非常な災害となってしまった。なかでも中善地、羽鳥、石原などの諸村の被害が最も甚だしく、特に石原には耕すべき少しの土地を余しておらず、ついに食うにその日の食物なき状態にまで立ちいたった。 石原の里正(村長)を小栗清九郎といったが、生活の道を失った多くの村人は大挙して小栗方に押し寄せて泣き叫んで憐れみを乞い、救助を求める人たちが門前に群がった。 小栗はこの災害に遭遇してほとんどなすところをしらず、施すにその術がなかた。この時、小栗は一案が胸に浮かんで、走って隣村の羽鳥村に赴き、授三郎に救済の方途を求めた。 授三郎は「乞う、君の余財一百金をなげうってください。私はこれをもって、彼ら村の人たちに仕事につかせる事ができるであろう。」と小栗に言った。「君の言うことはまことによろしいが、ただ僅かに一百円の金をもって、石原の民に与えるとしたところが、一戸わずかに二円に当たるに過ぎないのではあるまいか。このようにしてこんなに多数の人命を救うことが果たして可能であるならば甚だ幸いである。果たしてどうであるか、私は僅かに一百円の金を惜しむものではないが、ただ憂えるところはこのような少額の金子で多数の村人の飢えと凍えとを救うことは果たしてできるや否や、それのみを憂えるものである。」と小栗は言って憂慮の色が深かった。 ここにおいて授三郎は笑って答えるに「私にはおのずから、策がある。君はこれを心配しないでほしい。」 ここにおいて、授三郎は隣村の下石田の報徳家である神谷與平治を訪問して協議し、再び石原におもむいて、村人を集めて対策を語った。松島「諸君、今やご承知のごとく極寒に向かう時節であって、老人や子供では野良で仕事に従事することは到底できないので仕方がないが、ただ壮年血気で働き得る諸君はどうぞ私どものなすところに見習ってください」と一同を鼓舞激励した。 こう言い終わってすぐに授三郎と神谷久太郎とは自らもっこをにない、水害のため石河原となった荒地復興の作業に着手した。さすがに報徳先生安居院の指導を肝に銘じた両雄の獅子奮迅の有様はまことに現地をみるがごとき感があるのであるまいか。 このようにして多数の村人が砂利を取り除く、もっこをかつぐ、雄々しい作業ぶりが目に見えるようである。天龍川の大洪水と復興 かくて授三郎と神谷久太郎とは年末から翌年四月にかけて『もっこ』をかつぎ、鍬をとり村の青壮年の人々と一所に、石河原を変じて良田となすところの作業に、孜々営々として従事してやまなかった。そして毎日賃金若干ずつを人夫に支払ってやり、家族の生活を支持したのであった。それでもなお生活に困難するもののあるときは里正の小栗と相談しては、米や麦を支給してやったので気持ちよく復興の仕事がはかどったのであった。このように手配してやったので、初夏の麦の熟する頃には、村人もよく安心して生活を営むようになったのであった。 そしてその復興した田を「報徳田」と名付け、村人たちは皆喜び勇んで農事にいそしみ家事にはげむようになったのであった。この復興の仕法は実に安居院先生の授けるところの『報徳』を実践したのであって、実に『興国安民法』そのものであったのである。 後日になって里正の小栗がこの事業に投じた経費を計算したところ、僅かに金三十六円の支出に過ぎなかったということである。 この洪水の時には、天竜川の氾濫で堤防が決壊したのでそのために人家の流失もあった。授三郎の家でも自宅を流出する、田園は荒廃するという状態であったが、不思議にも生命には別条はなかった。ひとしく僅かばかりの米穀の蓄えもなく、自分の生計にも困難を来していたと伝えられているが、石原村の急を聞き、かつ小栗の誠意に動かされて、勇躍して難に赴いた。授三郎の真面目を発揮したものである。 その後、授三郎は本家某の言葉にしたがって翻然と悟った。「報徳の法たる、一家を棄てて他を救うの法ではなくて、これは一家生存の法を推して他の生存をはかり、共に共に扶助する所以の法であることは必然である。」と。 引佐郡伊平村に移り住む。 ここにおいて大いに自家の生活に注意を払い、薬舗の経営をも拡充して行くために、意を決して住居を引佐郡伊平村に移した。実に授三郎が四十歳のときのことである。 その後授三郎はもっぱら家業に専念して孜々営々として、家産の増殖につとめること数年に及んだが、平常の授三郎の正義観は一朝事あるにあたっては、これを傍観することはできなかった。 三才農学誠報社の結成 後、明治十二年の頃のことである。居村伊平村の戸長山本宗次郎、野末久八郎等が突然訪問して『村内の風俗が頽廃して、博徒が横行する。したがって白昼賭け事をして止めるところをしらないという悪風が、盛んに行われており、今にしてこれを矯正しなかったならば、善良の人たちは離散してしまうであろう。いかにかして救済の道を授けられんことを。』と訴えてきた。 授三郎はここにおいて、つぶさにこの両人らの語るところを聞いていたのであったが、おもむろに口を開いて語って曰く、『民を治めることは、ちょうど水を治めるごときものであって、速やかに効果をあげようとすれば、堤は破れ、洪水はあふれてしまうような患いのあるものである。この際、諸君が急に事を成そうと欲する場合には、私のよくするところではないが、おもむろにその効果を求めようとするならば、成功は易々たるものである。』と告げた。 ここにおいて両人等はぜひともその教えに従わんと誓ったので、授三郎の指導のもとに一社を組織して村内の青年子弟を集めて授けるに、種芸耕作の方法から人道道徳の教えをもってしたのであった。これが三遠農学社の前身である『三才農学誠報社』であって、山本、野末両氏等はその説に感銘し、青年子弟を指導することは一に君に委任した。 そして野末久八郎を社長として、もっぱら産業と道徳を講じて、村民を教化すること数年に及んだが、このために、一村百五十余戸の村里が、風俗が正しくなり産業面の躍進を見るに至った。明治十四年にはさらにその規模を大きくしてその名称も『西遠農学社』と改めて、気賀町、奥山村などに支社を設立するなど、しきりに私財を投じて社会事業の推進に力をいたした。また自宅を開放して夜学を開き、青年子弟の集まるものが数十名の多きに達した。しかもその書籍や、器具、薪炭、石油などはことごとく君の支弁によったということである。松島吉平君の伝 岳陽名士伝 ●平民農●嘉永二年三月生●豊田郡豊西村中善地●県会議員●自由主義君幼時、吉太郎という。年はじめて6歳羽鳥村・長源寺恵善に就いて読書習字を学ぶ。君年12歳城東郡撰要寺玄常に従って書及び漢籍を学び、かたわら仏書を講ず。のち有賀豊秋・高橋月査・小栗松靄等に漢籍詩文国詞を学ぶ。君俳諧に於て大いに自得する所あり。年立庵十湖と称し、全国皆な君の名を知らざる者なし。君の逸事もっとも多しといえどもその忍耐事に当り敢て倦まざるに至りては一に君の特性なりというに憚からざるなり。そもそも天龍川は源を信州諏訪湖に発し、流程70有余里、貨物の運搬、田畝の灌漑ことごとく皆なその利をこうむらざるなく、沿岸の居民これによりて生活する者、実に千を以て数うべし。而して君の居は天龍川の西岸にあり、東岸匂坂村と相対す。然れども橋梁渡し船の便なく農商皆な迂路による。君憤然として渡し船の便を開らかんとし、明治5年を以て浜松県に出願す。県省みずために往復する。ほとんど40余回。県吏大いに君の熱心に驚く。然れども天龍の水たるや奪流激湍遂に船の横過すべきなきを知るゆえに、衆以てこれを難ず。曰く彼狂するのみ。もしそれ秋雨山を洗い河泊怒を逞うするのとき、その轟然として奪激する。あたかも驚浪恕濤の海を掀するに均しきのみ。如何ぞ能く渡津を開くの地あらんやと君なお寝食を忘れてこれに従事す。県吏終にこれを許す。君勉励拮据遂に渡津を開き、日にその便に依るもの、数百人の多きに至るのち、君の引佐・麁玉郡長となるにおよんで僅かに官暇を得て同志者に謀り、同地に橋梁を架す。長816間実に明治14年竣功すという。君幼時(万延元年5月)天龍の暴溢に逢い田圃邸宅皆な砂礫の場となり居民わずかに身を以て免る。のち耕地を回復するに勉め自ら耒耜をとりてこれを業とす。のち明治5年再び暴溢して堤塘を潰决し汎濫洪々居民生をやすんぜず。飢渇こもごも至る。君漑然として倉廩を開き、米粟数十俵を賑恤す。飢民始めて食に就く。明治8年秋河水またみなぎり同郡倉中瀬の堤防を突く。君警を聞いて起ち身役夫に先んじてこれを指揮す。遂に長さ40間高さ9尺の堤塘を築くと得て、その災いを免がる。一に君の奨励による。君明治の初年より村会議長となり、また浜松県会議員となる。のち静岡県会幹事に挙げられ、議員中嶄然として頭角を著わす。明治十二年前米国大統領グラント氏の来遊に会し、君及び和田・丸尾等の数氏委員となり、豆州三島町に亨莛を張る。グラント氏撮影を君に送りて函根に至り神奈川県議長小西正蔭氏に邂逅す。氏博学多才兼ねて書を能くするを以て遠近その名を知る。君一見故人の如く意気大いに投合せりという。明治十三年一月静岡県の官吏となり、同14年7月更に静岡県引佐・麁玉郡長に任ぜられ、就任の後、教育衛生勧業等いやしくも公利公益に関し民福の存する所、すべて挙がらざるなく、率先して道路を開鑿し橋梁を架設す。同16年1月三方が原の道路を開通す。就役者ほとんど千有余人、わずか半日程にして全くその功をあわる。君の奨誘そのよろしきを得る、一般を知るに足るべし。奥山方広寺今井東明師かつて君の赴任以来の新事業工費を積算し、これが功績を掲表す。工費金76,810円83銭4厘5毛にして橋数35開鑿道路79所、新築学校12舎等なりという。君の道路橋梁等の改修に熱心なるを証するに足らん。君両郡内の農事更に振興せざるを憂え自ら率先して有志者にはかり西遠農学社を組織す。昨年に至りて入社する者ほとんど一千有余名6郡75村にわたり、月次一回の集会をなし、学理と実際とにつき農事改良の演説をなす等着々歩を進めて大いに振興の徴ありという。明治19年8月非職となる。当時政海の波瀾大いに激動す。後藤伯大同団結を唱道して天下靡然これに帰す。君起ってこれを賛し、浜松人澤田・鈴木の二氏と共に遠陽大同俱楽部を創設し、各地に演説会を開いて党員を募集す。同11月に至りて入党する者、実に600有余名に達す。ここにおいてか結党式を挙げ、河野広中・稲垣示・花香恭次郎氏等を聘して演説会を開く。同時君選ばれて同俱楽部の常議員たり。明治23年1月君感ずる所あって遠陽大同俱楽部を脱し更に東京なる大同俱楽部に加盟し、のち愛国自由大同の三派合同なり自由党起こるに及びて更に同党に加盟し今なお同党中錚々の聞こえあり。第一期衆議院議員選挙に当り君衆人の推すところとなり、第6区候補者に挙げらる。のち幾ばくもなく県会議員補欠選挙においてほとんど全点を以て豊田郡より選出せられたり。君人心を収攬するにおいては他人決して企及する所にあらず。而してその胸中豁然として隠避する所なきに於いては最も君の名望を博する所なり。君にして平素の老練と得意の技量とをして第二期選挙場裏に振るわしむ。一大活面を開く知るべきなり。💛