日本語はなぜ美しいのか 3
「日本語はなぜ美しいのか」黒川伊保子著その1その2p.28-30 日本語は美しい日本の風土で日本語の使い手である母に抱かれて育った者には、日本語は美しいと感じられる。この「日本語」を「ドイツ語」や「英語」「アラビア語」「中国語」に置き換えてももちろん成立する。ある言語を美しいというのは、ふつうあまり意味がない。その言語の織り成す文化が、自分の脳の感性構造に適合するという、非常に個人的な見解に過ぎないのだから。しかし、日本語の場合、日本人があえて「日本語は美しい」というのは意味がある。日本語は、母音を主体に音声認識をする世界でも珍しい言語である。母音を主体に音声認識をする言語は、ポリネシア語族だけ。世界経済をけん引する欧米各国やアジア各国の言語はすべて子音を主体に音声認識する。これらの言葉では、母音は言葉の音として認識されず、右脳のノイズ処理機能で「聞き流して」いる。p.31「言語を聴く、脳の方式」では、母音で聴く人類と、子音で聴く人類がいる。「日本語は圧倒的に少数派の方式の言語である」ことばの発音体感を精査すると、母音で音声を聴き合う言語の使い手の間に生じる「意識の寄り添い」「暗黙の了解」が、母音を聞き流す言語の使い手にはあまり見えていない。語感研究のアプローチから日本語を見れば「日本人だけに見えるもの」が歴然として存在する。それはスピリチュアルなものではなく、脳の反応として存在し、物理的にも確認できる。p.46 言葉と身体性 母語アイウエオには、それぞれに、意識と直結したイメージがある。アという音は、口と喉を開けて出す自然発生音である。驚いたときや、伸びをしたとき、私たちは自然にこの音声を発する。 脳が何かを強く認識した瞬間、私たちの身体は、背筋がすっと伸び、前後左右どちらにも体をねじれるような状態になる。マニュアル車のニュートラルのような状態だ。 口を開け、喉までも開放するアの発音体感は上半身をリラックスさせ、どこにも力の入らないニュートラルな状態を作り出す。 だから私たちは突発的な出来事にあうと「あっ」と声をあげ、一瞬のストップモーションを作る。 同じ理由で、こわばった身体をリラックスさせようとしたとき、私たちは「あー」と伸びをする。あくびは、アの発音体感に、大量の酸素補給を加えた、効率のいいリフレッシュ体操だ。アの発音体感は、開放的な「始まりの意識」を感じさせる。日本人は、文章の主題にあたる句の後には、ア段の助詞を添える。たとえば「私の考えは」とか「彼の生き方が」のように。そこには、これからこの話をするから、まっさらな気持ちでありのままを受け入れてね、と暗黙の了解を求めている。受け入れる側も、この気持ちを受け取って、うなずいたりする。ちなみに、大和言葉では、自分のことを「あ(吾)」と呼んだ。遠くのものも「あ」である。今から話すことになる主体になるものすべてに「あ」をつけて「さあ聞いて」という気持ちを添えた。 <参考>「一億人の俳句入門」長谷川櫂 講談社・言葉の音色俳句の奏でる音楽でリズムの次に大事なのは、母音と子音の織り成す音色。「行く春を近江の人と惜しみける 芭蕉」(*)(iku haru wo oumi no hito to osimikeri)この句を母音と子音に分解して分かることは、oとuの母音が多いこと。この繰り返しに現れるふたつの母音がここでは湖の波のような調べを奏でる。「番傘の軽さ明るさ薔薇の雨 中村汀女」(bangasa no karusa akarusa bara no ame)「かるさ・あ・かるさ」という音が軽妙なリズムを刻んでいるが、そればかりではない。k,s,bというどれも乾いた子音、弾むようなn,mの子音、軽快なrの子音、さらにはaの母音が波のように現れるのが分かるであろう。子音のk,s,bは7回、n,mは4回、rは3回、a母音は11回。これらの子音と母音が織り合わさって、番傘を叩くような大粒の雨のようなからっとした明るい曲を奏でている。音色の音楽はなぜ生まれるのだろうか。日本語、とりわけ大和言葉はその意味にふさわしい音色を持っている。「はる」と言う音色は春のように柔らかだし、「ばら」と言う音色は薔薇のように豪華。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・*『去来抄』「先師曰く、「尚白」が難に、近江は丹波にも、行く春は行く歳にも振るべし、といへり。汝いかが聞き侍るや。」去来曰く、「尚白が難あたらず。湖水朦朧として、春を惜しむに便有るべし。殊に今日の上に侍る。」と申す。先師曰く、「しかり。古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都におとらざるものを。」去来曰く、「此の一言心に徹す。行く歳近江にゐ給はば、いかでか此の感ましまさむ。行く春丹波にいまさば、本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかな。」と申す。先師曰く、「汝は去来、共に風雅を語るべきものなり。」と殊更に悦び給ひけり」