老農木村武七氏は撰種法及麦作の改良法,肥料法,耕作法等を実験上よ り詳述し農家の経済法として各村に報徳法を設置し西駿に本社を設立し積立金を為し凶歳の予備米 を為すは刻下の急務」であることを熱心に説いた
戦前の日本における農民教育の普及(1)木村武七・明治29年度の志太郡農会の事業報告が「普通農事実業家三遠農学社副長木村武七を雇人米麦作の改良法土壌製造法其他普通農事に就き実地示教を為さしめ又農産物品評会の審査を嘱託し傍ら報徳の教を布かしめ」たと記している・明治30年7月30日,志太郡青島村で千家県知事臨場の下に,県農会主催の農事大会並びに農事講話会が開催された。参集した聴衆は730人にものぼり, 「会堂2階の大広間(百畳敷)に充満し立錐の余地なきに至る」状況であった。午前10時30分開会し,同村農会長,志太郡長の挨拶などの後に農事講話がはじまり, 「老農木村武七氏は撰種法及麦作の改良法,肥料法,耕作法等を実験上より詳述し農家の経済法として各村に報徳法を設置し西駿に本社を設立し積立金を為し凶歳の予備米を為すは刻下の急務」であることを熱心に説いた。次に伊藤農学士が立ち, 「学理と実験に徹して ママ米作法を詳述し農民各自の貧富は大に国家の財政に関係する所以を論じ・-・・,会場前に設置しある志太郡農会米作試験場試験の方法を説明し『ズイ』虫発生の状態及予防法を懇篤に教示」したのである。又,午後には木村武七とともに伊藤もこの日二度目の講話をなし,特に伊藤は講話会終了後,その参会者有志と共に前記試験田に雨を冒して出張し,懇切丁寧に説明したのである。この時期,農学士伊藤巡回教師と並んで老農木村の講話が同じ場所でおこなわれたことは,非常に注目される。それにしても,伊藤の懇切丁寧な巡回指導は,やはり多くの聴衆に感銘を与えた。『岳陽名士伝』山田万作著に「木村武七君の伝」が載っている。 木村武七は天保12年生れ、周知郡森町字森山とある。父の名は相十といい、「家貧しく駕舁(かごかき)をもって業」とした。武七は天性豪毅直恕で、幼い時より父の業を見習い、同じく舁夫(かごや)だった。26歳の時、始めて農業で身を立てようと、前業をなげうって、日々農業を学んだ。27歳の時に伊勢・大和・甲斐・武蔵等の諸国を遍歴した。家に帰ると父は危篤で治療の効果なく亡くなった。葬式に際して、わずかの貯蓄もなく、人の助けで辛うじてこれを葬った。武七はそれ以来勤苦してやや生計を営んだが決して余財があるわけではなかった。しかし仁慈の志があつく、人が困窮するを見てはこれを傍観できず少しの粟や少しの布もわけてその急を救った。そして孤児を養育し、死んで弔う者のない者を代葬し、寡婦で生活に苦しむものを助けた。貧困者にはできるだけ人目に触れないように米麦を投げこんだりした。武七は道路や橋が壊れたところがあれば、必ず自ら奮って修繕した。従来君が住んでいた村から森町に至るに車道がなく肥料の運搬など万事不便であったので、明治15年~17年にかけて、巾7尺長さ12町余の新道を開いた。 これに先立って明治8年武七は始めて報徳に心を注ぎ、一層農事に勉励し、13年に至って、周知郡天ノ宮村に同志50余名を結合して報徳社を組織した。隣りの蓮華寺村は戸数わずかに20余戸で一千円余りの借金があり、このために全村困窮に陥っていた。武七はこれを聞いて森町の新村氏にはかって、5か年皆済の報徳仕法により無利息貸付を受け、21年に皆済した。武七はまた明治4年麦作改良に志し、16年まで13か年間実験実地に行い、種一粒にして180粒を得たり。これいより県下第一の麦作家と評判になり、県令奈良原氏から賞状を贈られた。その文に曰く。「従来志農事に篤く種芸の法を改良し収穫の量を増殖す。地方農民の模範たるべし。益勉めて上進せよ。篤志嘉すべし。」明治24年武七は牛耕により農事を改良しようと欲し、自ら牛を飼いこれを使用し、人の求めに応じてどこへでも出張し、試耕を行い、佐野周智豊田の諸郡は牛耕を行うようになった。同年武七は横川村の麦作がよくないと聞いて、自費で四度出張し、改良法を説明し、村民が実行したところ、翌年秋には、わずか70余戸の村で平年額より152俵の増殖を得た。武七はまた佐野郡成瀧村の平岩佐平の説示により、公衆に利益を与えようと欲した。佐平は老衰して行歩困難というので、自らカゴをかいて、佐平を乗せて周智佐野郡を回って各所に農談会を開いて、佐平の所説と自己の意見を公衆に披露した。17年7月の周智郡第6回茶繭米麦共進会があり、武七は麦で一等賞を得、米は2等賞を得た。19年周智郡長・足立孫六氏から麦作巡視として管内巡廻を委嘱され同年岡田良一郎氏の嘱託で志太郡胴原村へ出張し肥料製造法の伝習を受け、同年及び翌年に掛け、掛川郡役所に依頼されて、佐野城東両郡の牛耕試験に巡回した。昼は実験に従事し、夜は衆人を集めて演説し、その間安眠いたの二夜だけという。武七はまた20年より3か年間静岡県の命によって米麦を試作すること5反部そして年々その補助として金15円下賜された。武七が過去十数年の辛苦多忙なる実歴はおおむねこのようであり、今日なお農事及び報徳の道に全く余念がない。遠江国報徳社は武七の積年の功労を賞賛し、白木綿一反を授与した。『精力を農事に尽くし、麦作の法を究め、専ら牛耕を施して便益を四方に知らしめ、或いは麁田を耕して良田と為し、道路修築に力を用い農者の務めを怠らず、官の賞与を受くる数回。その行い称すべし。よってその賞として之れを付与す。』