後藤新平の陸軍検疫所「日本はかかる検疫事業を遂行する威力と人才がある」
後藤新平の125年前の「大検疫」鶴見祐輔は『後藤新平』 「海を埋め、樹を切り払い、地ならしをし、家を建て、屋根を葺き、諸道具一切を運びこみ、電信、電話、電灯の設備をなし、(略)まったく類例なき大消毒缶を製造して備えつける」後藤新平 陸軍検疫所浪人生活の後陸軍検疫部に入った新平は、僅か2ヶ月という短期間で総建坪22,660坪、401塔の検疫所を完成させました。検疫所建設の前後四ヶ月は、朝七時から晩九時まで椅子に腰を下ろした事はなかったといいます。なお、日清戦争後の検疫では消毒した艦船は687隻、総人員23万人強(232,346人)、その中コレラ患者総数1,500人でした。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、後に謁見した日本の軍医正に対し、「この検疫事業は無上の大成功である。日本は軍隊が強大であるばかりでなく、かかる事業を遂行する威力と人才があるとは」と驚嘆した。新平はこの事業の成功で内外から絶賛され、再び内務省衛生局長に就任しました。〇日清戦争開始により朝鮮半島からの帰還兵が持ち込む病原菌を防ぐために、明治28(1895)年に似島に検疫所が設置された。正規式名称は、『似島検疫所第一消毒所』です。 日清戦争時、戦地から帰還した労働者が発生源とみられるコレラ病が広島市で流行した。例えば明治27(1894)年には赤痢、明治28(1895)年にはコレラが大流行した。 陸軍では、戦場から帰還した兵士たちが海外から伝染病を持ち込まないように、軍港(宇品港)に検疫消毒所をつくることにした。しかし、それでは兵士が帰還するまでに、宇品に検疫所を開設するのが間に合わないことが判明する。 そこで、明治28(1895)4月1日、勅令第33号"臨時陸軍検疫部官制"公布、似島の字長谷に臨時陸軍似島検疫所として開設が決定された。 後藤新平臨時陸軍検疫部事務局長の指揮のもと彦島検疫所(下関市彦島)・桜島検疫所(大阪市桜島)とともに整備され、僅か2ヶ月という短期間で総建坪22,660坪、401塔の検疫所を見事に完成させた。 後藤新平は検疫所建設の前後四ヶ月は、朝七時から晩九時まで椅子に腰を下ろした事はなかった。 明治28(1895)年5月30日完成した。 突貫工事のため、現在の似島学園北側にある、当時の焼却炉の煉瓦の煙突は、上部の部分になるほど積み上げが雑になっており、急いで設置されたことがよくわかる。 明治28(1895)年6月1日開所し検疫業務が始まる。 開所直後である明治28(1895)年年6月7日には北里柴三郎博士が、当時新型の『熱気消毒用機器』である蒸気式消毒罐の実験のために訪れている。 開設当時の検疫所には、事務官100人余、派遣の軍隊員150人、労働者180人が配置された。 同敷地内に付属の避病院(伝染病隔離施設)も設けられた。 広島市内には分院もつくられ、その中の一つである似島避病院舟入分院はのち市に払い下げられ、現在は広島市立舟入市民病院になっている。 なお、日清戦争後の検疫では消毒した艦船は687隻、総人員23万人強(232,346人)、その中コレラ患者総数1,500人に達した。これについて、当時のドイツの皇帝(Wilhelm II)は、「この方面では世界一と自信をもっていたが、この似島(ニノシマ)の検疫所には負けた」 と驚いたという。 この検疫所での事業は大規模なもので、似島検疫所は当時世界最大級のものでした。 検疫所という特殊性があるため、検疫所職員の中で53人も病気感染による死者がでていて、その慰霊碑は広島市内東区「饒津神社」境内にある。