北見市立図書館が「資料で読む技師鳥居信平著述集」を蔵書としていただいた
北海道で北見市立図書館が「資料で読む技師鳥居信平著述集」を蔵書としていただいた。感謝します。1 北見中央館 2階実用書コーナー(18番の棚にあります。)289.1/ジフ ○徳島県の農地改革(「徳島県の歴史」県史36)p.259-昭和22年(1947)4月にはじめての徳島県知事選挙が行われた。選挙の結果、社会党の阿部五郎が当選し、全国でも4例しかない社会党知事が誕生した。知事選挙の期間はちょうど農地改革が進展していた最中だった。農地改革は、昭和20年(1945)12月に帝国議会で農地調整法改正案が成立(第一次農地改革)したことにはじまる。これは、小作料の金納・固定化。また強制譲渡を根幹とした。地主制土地所有に直接介入する政策で、敗戦により従来の政治勢力が後退したため、農林官僚主導で改革を断行できた。しかし、法の骨子は地主・小作関係を調整する昭和12年の農地調整法の延長上にあるもので、改革の最大の焦点である在村地主の保有地について農相案が1町五反歩であったのに対し、閣議決定で5町歩と後退した。これに対しGHQはこれを認めず、対日理事会に方針を諮問し、在村地主の小作地保有面積を1町歩、自作農の土地所有限度を3町歩、小作料の低額金納化、農地委員会の構成を地主3・自作2・小作5とする、より徹底した案を採用し、これをもとに昭和21年(1946)10月、自作農特別措置法と農地調整法改正が成立した(第2次農地改革)。徳島県は、経営面積1町歩以下の所有者数が、全体の9割以上を占める典型的な小規模経営農業を特徴とした。小規模地主は少ない農地を守ろうと、小作料の引き上げや売り逃げなど農地改革を回避する者が続出した。日本農民組合は戦前に小作争議の高揚した那珂川下流域で発達し、吉野川中流域へ広がっていた。那賀川下流域は比較的大きな耕作規模の水田単作地帯で、小作料も高くはやくから小作争議が発生していた。一方、藍作中心の吉野川中流域では畑作が多く、阪神市場と結びついた園芸農業が発達していた。この地の地主は藍商だった者も多く、古くから地域支配層を形成し、農業組合との対決はきわだった。県知事選でも農民組合の組織が強固な那珂川下流域では阿部五郎の得票がきわだっていた。県の農地委員会会長に阿部知事みずから就任し、農地改革を通じて農民組合は勢力を拡大した。昭和22年3月より実際の買収が開始され、年内に予定の90%を終了した。翌年には売渡しの大半が終了し、短期間のうちに改革は終了した。農地改革で、全国では約180万町歩、徳島県においては約1万1千町歩が解放された。これに伴い大規模地主制が消滅し、小作農が自作農に転化し寄生地主制は解体された。のこった小作についても耕作権が強化された。💛表でみると昭和16年と昭和24年と、自作農、小作農、土地を耕作しない農家を比較すると、農地改革の結果自作農が2倍近くに増え、小作農が3分の1に減ったことがわかる。自作農 28,218戸→ 52,902戸小作農 16,038戸→ 5,083戸地を耕作しない農家 180戸→ 14戸鳥居信平は「土地国有の有無を論ず」において「自作農が有せる精神的美点は政治社会上に影響す。国家の完全なる維持者たる自作農、すなわち土着の農民を全然欠ける国家はその基礎において決して安全ならざるなり」とし「国民経済より見れば、その衣食に汲々たる細農民、農業労働者を自作たらしむべく国家がその方法を攻究せば、土地国有論のごときは実行するべく前途遼遠の域にあり」と結んだ。農地改革は戦前から用意されていた特異性を持つ。「皇国農民」育成のための自作農創設は、敗戦後「民主主義国家」建設のための農地改革と引き継がれた側面もある。この価値観の連続性が徹底した農地改革が大きな抵抗もなく受容されたという側面もある。しかもなお、敗戦によるGHQの指示という強制的パワーなしでは戦前の農林官僚の改革には限度がある、徹底的な改革はできなかったであろう。これはまた、現代日本のもつ持つ問題点、新型コロナ対策(PCR検査の遅延、ワクチン開発、ワクチン接種エトセトラ)が既存利益団体(厚生省医官・医師会・族議員)の抵抗によって、徹底的でスピード感のある政策が実施できないこととも通じているように感じる。・鳥居信平がおそらくは徳島県の耕地整理などにたずさわるなかで、「地主はその土地の占有と社会上の状態によって、小作に対して盗奪的行為を公然としてなせり。今日小作人が地代を地主に収めるところのものはその土地改良のために下したる資本に対する利子以外に小作人の労働に対する報酬の一部分をも含合せり」に」(p.120)と寄生的地主制について疑問を持つようになったと思われる。「進歩したる科学の力を十分に土地に応用する」には「大規模の灌漑、排水のごときは国家の事業として、国家の有する土地に随時施工するの便宜、けだし多大ならん」という土地国有論に魅力を感じながらも、その前に自作農創設の政策を実施すべきだと考えていたようだ。そして自らの理想を実現するために台湾製糖株式会社による荒蕪地開拓、そして帰国後は国による大規模開拓事業に参画していったと思われる。