宮沢賢治ゆかりの観測所、保存に向け募金
宮沢賢治ゆかりの観測所、保存に向け募金2006年02月13日03時23分こんな記事が載っていた。宮沢賢治ゆかりの国立天文台水沢観測所内(岩手県水沢市)にある旧緯度観測所本館の保存運動に取り組む同市内の市民団体は11日、集会を開き、全国の賢治ファンや天文愛好者に広く募金を呼びかける方針を決めた。募金は、約1億円とされる保存費用の一部にあてる。この団体は「保存活用を考える会」。詩人で、岩手県花巻市にある宮沢賢治イーハトーブ館館長の原子朗・元早稲田大教授、国立天文台名誉教授の大江昌嗣さん、水沢市長の高橋光夫さんらが集会に参加した。築85年の建物は老朽化して傷みが激しい。旧緯度観測所は宮沢賢治がしばしば通い、「銀河鉄道の夜」の構想を育んだ場所と考えられている。募金の問い合わせは、「考える会」代表の佐藤一晶(かずあき)さん(0197・22・5626)へ。GOOGLEで検索したら、朝日新聞の天声人語にも載り、中国語に翻訳されて中国の人々まで周知されたらしい。宮沢賢治は中国人にもファンがあるのだ。2006.01.13天声人語宮沢賢治がよく通ったという岩手県水沢市の旧緯度観測所の古い本館が、解体の直前に一転して保存される方向となった。代表作「銀河鉄道の夜」の構想をはぐく育んだとも考えられている建物だ。保存を訴える全国の賢治ファンの声を受けて、水沢市では市有にする方針という。 今の国立天文台水沢観測所の敷地内にある木造2階建ての旧本館は、1921年、大正10年に建築された。その年に、賢治は現在の花巻市の農学校に教諭として赴任した。それ以後、地球の自転軸のふらつきなどを調べる観測所に、しばしばでかけた。「その前の日はあの水沢の臨時緯度観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ」。童話「風の又三郎」の原型とされる「風野又三郎」の一節だ。詩「晴天恣意」の下書きの一つには「水沢緯度観測所にて」という副題が記されている。 先日の夜、その旧本館を訪ねた。小さな望楼付きの洋風の建物は、雪明かりの中で、大きな黒い影のように立っていた。半月が浮かび、星はあまり見えない。 「銀河鉄道の夜」の初稿ができたのは、観測所に通っていた24年ごろだった。22年には愛する妹トシが亡くなっている。それまでそこに居た人が永遠に居なくなる。その深い悲しみが、少年ジョバンニが友のカンパネルラを失う物語に投影しているように思われる。 旧本館に近づくと、ガラス窓の奥に小さな赤い電球の明かりが見えた。闇の中の一点の光。それは、「銀河鉄道」がかか掲げるともしびのように、ぽうっと静かに息づいていた。中国語の翻訳には賢治の「雨にも負けず」の中国語訳が載っていた。《不怕風雨》宮澤賢治不怕雨,不怕風,何懼嚴寒、酷暑,一副結實的身骨。沒有欲望,決不惱怒,恬靜的笑容,在我臉上永駐。豆漿、粗菜、淡飯,一日三餐亦覺足。遇到諸事不動情,靜觀細記不糊塗。野外松林的深處,有我棲身的小草屋。村東小兒可有恙,讓我細心去照顧;村西大媽可疲倦,我來邦助背稻穀;尉藉村南彌留者,不要怕,莫恐慌;勸解村北□架的人兒,多無聊呀,無需上訴。天旱時節,我滴下熱涙,盛夏之季,寒流襲來,我焦慮不安,行色匆匆。大家説我有點發□,莫要為我擔憂,不必為我讚頌。我,真想成為這種人□!(□は楽天では漢字表記されない)○水沢緯度観測所に関連した作品・童話「風野又三郎」(抜粋)その前の日はあの水沢の臨時緯度観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ。なぜってあすこを通るとレコードでも何でもみな外国の方まで知れるようになることがあるからなんだ。あすこを通った日は丁度お天気だったけれど、そうそう、その時は丁度日本では入梅だったんだ、僕は観測所へ来てしばらくある建物の屋根の上にやすんでいたねえ、やすんで居たって本統は少しとろとろ睡ったんだ。すると俄かに下で『大丈夫です、すっかり乾きましたから。』と云う声がするんだろう。見ると木村博士と気象の方の技手とがラケットをさげて出て来ていたんだ。 木村博士は痩せて眼のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好きだねえ、それに非常にテニスがうまいんだよ。僕はしばらく見てたねえ、どうしてもその技手の人はかなわない、まるっきり汗だらけになってよろよろしているんだ。あんまり僕も気の毒になったから屋根の上からじっとボールの往来をにらめてすきを見て置いてねえ、丁度博士がサーヴをつかったときふうっと飛び出して行って球を横の方へ外らしてしまったんだ。博士はすぐもう一つの球を打ちこんだねえ。そいつは僕は途中に居て途方もなく遠くへけとばしてやった。『こんな筈はないぞ。』と博士は云ったねえ、僕はもう博士にこれ位云わせれば沢山だと思って観測所をはなれて次の日丁度ここへ来たんだよ。ところでね、僕は少し向うへ行かなくちゃいけないから今日はこれでお別れしよう。さよなら。」 又三郎はすっと見えなくなってしまいました。「土神ときつね」では次のように観測所を記している。「『まあ、あたしいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でせう。』『それは立派ですよ。僕水沢の天文台で見ましたがね。』」(「土神ときつね」より)