久保先生の涙 つづき
―――――――――――――――――――――― ■久保先生の涙~4■ ――――――――――――――――――――――――――― 「なんとしてでも赤ちゃんを助けたい」久保先生の無我夢中の治療の日々は続いた。しかし、それから一年後、赤ちゃんの容体が急変した。 「赤ちゃんが危ない」その連絡が医局に入った。久保先生はふたりの医者と一緒に病室へ走った。走って走って走った。 病室の前に来た。静かだった。病室の中に入ると、母親とふたりの看護婦が赤ちゃんの手を握っていた。三人は寄り添うかのように赤ちゃんを見守っていた。 駆けつけた三人の医者になす術はなかった。久保先生を見つめると、赤ちゃんはそれはそれは優しい笑みを浮かべた。それから、赤ちゃんはそれが自分の意志であるかのように瞳を静かに閉じた。 「木谷さんよ、三歳だぜ、わずか三年の人生だよ。儚すぎるよね」 久保先生は悔しくて哀しくてせつなくてこぶしを握るしかなかった。ひとりの赤ちゃんの命を助けることができなかった。赤ちゃんに病院の外の風景を見せることができなかった。 「木谷さんよ、その時、ひとり医師が静かに唄い始めたんだ。 私には賛美歌ということだけはわかったよ。 するとね、ひとりの看護婦もその声に合わせて唄い出した。 ほかの医者や看護婦達も、みんな唄いだした。 そして赤ちゃんのお母さんも唄い出した。 病室に賛美歌がそれは美しく清く響いていたな。 今思うに、みんなクリスチャンだったんだよな。 私はただ呆然と立ちつくすだけだったんだ」 久保先生の肩が心なしか揺れているように思えた。私は何も言えなかった。ひとりでただぼんやりとワイングラスを持つだけだった。 賛美歌が響く病室の中で、久保先生は泣くしかなかったそうだ。涙は、次から次へととめどなくあふれ出た。赤ちゃんとの、病室だけだが、しかし、いろいろな想い出が、久保先生の脳裏に揺れながら一気に蘇ってきた。 久保先生はたまらなくなって廊下に飛び出した。白衣の腕で何度も拭いた。拭いても拭いても涙は止まらなかった。肩をひきつらせながら医局へ戻ろうとした。 廊下に走る音がした。久保先生はこぶしで涙を拭くと振り向いた。赤ちゃんのお母さんが佇んでいた。お母さんの顔も泣きはらしたのだろう涙の後で眼は真っ赤だった。 赤ちゃんのお母さんは久保先生に頭を深く垂れた。「久保先生のような熱心な先生に治療してもらい、あの子も幸せでした。 久保先生のおかげで、あの子も、安心して、安らかに天国に行けたと思います」 赤ちゃんの治療を始めた頃、お母さんは毎日のように悩んでいた。言葉をかけることができなかった久保先生は自分を責めた。そんな母親からお礼を言われた。 「木谷さんよ、医者は一体に何のためにあるのだろうと、その時、私は思ったね。 それからも、何度も思ったよ。 母親が乳がんで若くして死んだ幼児が、廊下でうろうろしていることもあった。 そのような姿を見るたび、医者である私には何もできないことを知らされて、 本当にやりきれなかったね」 「そしてね、私は思うようになったんだ。 患者の一パーセントはどんな名医でも治せない。 その一パーセントの前では、医師は立ちつくすしかないんだ。 ならば、せめて最期の日は『安らぎ』とか、『安心』『平穏』気持ちに 患者や家族になるようにさせてあげたいとね」 久保先生は振り向いた。「ワインをついでくれないか」グラスを差し出した久保先生の目元は赤く腫れていた。―――――――――――――――――――――― ■久保先生の涙~5■ ――――――――――――――――――――――――――― 「木谷さんよ、最近、脳梗塞にかかって入院したんだってね」「そう、胃や肝臓ならわかるが、何も考えない私が脳の病気になるとはね」「しかし、軽くて良かったよね。 私も十年前、大病を患ってね」 久保先生は椅子に座った。ワインをゆっくりと呑んだ。「先生が大病を、そんなに元気なのに?」「そう、四十五歳の時だった」 久保先生は大分に戻った。経験をもっと積まなくてはと、故郷の病院に戻らなかった。赤ちゃんのことを思い出すと、医者としてもっと多くのことを学びたかった。 大分医大付属病院や県立三重病院で働いた。大きな病院で働くことにより、多くの先生からいろいろなことを学ぶ。そして、多くの患者さんから人生の機微を知らされた。 「木谷さんよ、人間は健康に生きてこそ人間なんだよ。 健康に生きてこそ夢を持って生きていけるんだよ。 それを、私は知らされたね」 久保先生は医大病院や三重病院での話もしてくれた。その話を書いていると、話はなかなか前に進まない。そう、その話は今度一緒に呑む時にでも話そう。ふふふふふ。 そして、昭和から平成に変わるのを機に、久保先生は故郷に戻ることにした。祖父や父親が院長を務めた故郷の病院で働こうと決心した。歳は四十五歳になっていた。 故郷の病院で働き始めた。故郷という地域医療に頑張る。自分の夢が実現できた。久保先生は、昼、夜に関係なくがむしゃらに働き始めた。 ある夜、久保先生は当直勤務だった。深夜、急患が入った。廊下を走って治療室に行った。患者の手当をしながら自分の息が切れているということに気がついた。 「おかしいな」いつまでも息が落ち着かない。知り合いの医者に診てもらうと、重度の狭心症だった。 即、入院ということになった。即、手術が行われた。手術が終わった。意識は朦朧としていた。考えることはできた。一週間生死の境をさまよったことは確かだ。 「これで私の人生も終わりかな。 まあ、これはこれでいいのかな。 木谷さんよ、人間って生死をさまようと意外に開きなおれるものだよ」久保先生は自嘲気味に微笑んだ。 「奥さんやお子さんのことは考えなかったのかい?」私は何を言っていいかわからないから平凡な質問をした。 「家族ね。女房のことね。子供のことね ふふふふ、木谷さんよ、女房と初めて会った時、私は思ったものだよ」「何を思ったのだね」「友人の紹介で知り合ったのだが、昔から知っていたような気がしたね。ふふふ」「チェ、ごちそう様」 人生が終わる。まあ、こんなものだ。これはこれでいいのだろう。 人間は死ぬ瞬間、そんな気持ちになるものなのかもしれない。久保先生はベッドの上でぼんやりと考えた。 以来、久保先生の脳裏からそのことが離れなくなった。そして……久保先生は延命治療というものに疑問を覚え始めた。 「金はいくらかかってもいい。最高の治療をお願いします」患者の家族は叫ぶかのようにお願いする。「治療費を減らせ。国民保健が破綻する」行政はしつこく指導してくる。 患者と行政のはざまで、久保先生はいつも悩んでいた。悩んでも悩んでもこれはという回答は誰も教えてはくれない。どうしたらいいのだろう。 そのような時に思い出すのが、初めての患者だった赤ちゃんへの治療も「延命治療」だったということだ。 「木谷さんよ、オヤジは七年前に亡くなった。 私はオヤジに延命治療を当然ながら施したよ。 するとね、何も言えなくなっているオヤジの目が怒っていたように見えたんだ。 オヤジは、おそらくそれを望んでいなかったのだろうね」久保先生はワインを呑んだ。瓶のワインは半分に減っていた。 去年、久保先生のお母さんが亡くなった。私も一度会ったことがある。顔一杯の笑顔で挨拶を返してくれた。「そのオフクロの治療していて、また、オヤジの治療と同じことをしていると 我ながら自分で自分がむなしくなったよね」久保先生はジレンマに落ち込んでいった。 幼子を残して亡くなった若い母親。宗教上の理由から最期まで手術を拒み続けて亡くなった人。多くの、そして、それぞれの死を、久保先生は間近で見てきた。 「もっとほかにできたことはなかったのか」 久保先生は患者を診断してこれと判断したらすぐに専門医を紹介する。人が何と言おうと構いはしなかった。「専門は専門にまかせるのが一番ですよ。 田舎の医者は村人のひとりです。 一緒に村で生きているのですからね。 親子、家族同様です。変なこと言うと叱られますからね。 なにしろ私の幼い頃を知っていますからね。 それにね、最近、私は思うのです。 医者が患者さんの病気を治してやる。とんでもありません。 私は患者さんと一緒に病気と闘うのです。 どうやって闘っていくか、そこが問題なのですがね」 久保先生は、今でも日々、「これで良かったのか」と悔やみ悩んでいる。(つづく)