子孫の為め世の為めに、これを実行する事を神の御前に誓う
香川県立図書館と北海道の酪農学園大学図書館で「二宮先生語録」が蔵書となった。建学の精神 酪農学園大学は、キリスト教に基づく「神を愛し、人を愛し、土を愛する」三愛精神を建学の精神とし、黒澤酉蔵が唱えた「健土健民」の理念の下、一人ひとりの個性を磨き、身に付けた知識や技術を社会で活かす力をはぐくむ「実学教育」を行ってきました。 本学は、「農・食・環境・生命」を基軸に、自然との調和の取れた循環農業の維持・発展を図り、人と動物の生命の存続と福祉に貢献し、かつ世界的活動に参加する人材を育てることを使命としています。田中正造との出会いが思想の原点 茨城の貧しい農家に生まれた黒澤酉蔵は、14歳で学業を志して東京に出ました。住み込みの仕事をしながら学校に通う中、16歳のときに足尾鉱毒事件で田中正造氏を知り、その正義感と人間愛に深い感銘を受けます。この出会いが酉蔵の一生を決定づけました。田中正造氏は、人間にとって国土がいかに大切かを語り、「健土健民」を理想とする酉蔵の思想の根がつくられたのです。鉱毒によって田畑を汚染され、健康を損なった農民救済のため、酉蔵は「青年行動隊」の結成を図りましたが、被害救済をめぐる世論が広がっていたときだけに、官憲は彼を極端に警戒しました。「反対運動よりも示談が得策だ」とする農民を説得しようとしたところ、酉蔵は逮捕・投獄され、6ヶ月間の未決拘留の後、無罪の判決が下されました。しかし、この獄中での聖書との出会いが、その後の人生に大きな影響を与えました。北海道に渡り、酪農の発展に貢献 田中正造氏の援助によって学業を修めていた酉蔵でしたが、母の死を契機に貧しい弟妹を守るため、20歳で北海道に渡りました。宇都宮牧場の宇都宮仙太郎氏から牛飼いは「役人に頭を下げなくてもよい」「牛が相手だからウソをつかなくてもよい」「牛乳は人々を健康にする」という酪農三得を教わり、酉蔵は一生を酪農に捧げる決心をします。1909(明治42)年に牛1頭を借りて念願の酪農自営を果たしました。事業にまい進する中で北海道畜牛研究会を結成し、生乳が余って酪農家たちが危機に立たされた時には、酪農家自らが製品を作って売る北海道製酪販売組合(現在の雪印メグミルク)を立ち上げました。こうして北海道酪農のリーダーとなった酉蔵は、寒地農業に必要なのは酪農を軸とした「循環農法」でなければならないとの思いを強くします。教育に情熱を傾ける 「人が育たなければ、酪農が育つわけがない」、酪農家の組織化運動のなかで教育の必要性を実感した酉蔵は、1933(昭和8)年に酪農学園大学の前身である北海道酪農義塾を開校します。不毛の大地を酪農によって沃野に変えたデンマークを手本とし、建学の精神をキリスト教の聖書からとった「三愛精神」としました。当時は全寮制で、学生は農場の一員となり働きながら学ぶ実践学を徹底。卒業生たちは地元に帰って酪農のモデル経営者として活躍するなど、酪農の発展に貢献しました。〇ホクレン指定団体情報 Vol236 平成18年7月31日発行北海道酪農150年の歩み 抜粋酪農・乳業ともに発展へ、昭和41年度不足払い法施行 不足払い法が施工された昭和41年、北海道は大冷害に見舞われた。時の総理大臣・佐藤栄作や農林大臣・松野瀬三らは11月に札幌で一日内閣を開いたがこれに合わせて冷害被災地を視察する予定を組んだ。 これを聞きつけた黒澤酉蔵(当時は北海道開発審議会会長)は、「冷害で泣いている農民を視察してもダメだ。冷害を克服した農業を見なければ冷害対策はできん。」と言って二人を胆振管内早来町(今の安平町)の遠浅に案内した。 遠浅酪農は昭和5年、滝川町(今の滝川市)や新十津川村(今の新十津川町)の酪農民らが、大規模な開田(水田開発)事業で転地を余儀なくされ、約30戸が集団移住したのに始まる。一帯は樽前山系の火山灰地で、不毛の地であった。 移住からの5年目、土地代金の償還が始まると明日の暮らしに困るほど追い詰められた。この時、農民は鎮守に集まり、黒澤を立会人に「誓」を立てた。 「・・・互いに助け合い一致協力して・・・3年の間は衣服類は一切買わず、食物は自給を主としてなるべく買わず・・・畜を愛して家族と心得、糞尿は土地の貴重な食物なれば、いささかも粗末にせず、一家の食料、家畜の飼料を豊富に収穫することに専念し、差し当たり平均2倍の増収に努める・・・。」 この「誓」は、今での安平町早来庁舎の金庫に大切に保管されている。遠浅の酪農民はその後、不屈の農民魂で不毛の大地を全国の模範となる酪農郷にに築き上げた。黒澤は佐藤らに、遠浅における酪農の神髄を見せたかった。 黒澤は6尺棒で自ら提唱する循環農法図を指し示した。「農業は天地人の合作である。これで経営を循環させれば能率の悪い農業、貧乏な農業を一掃できる。まず天だが・・」 この時、黒澤81歳。老境にあった黒澤の説明に佐藤はじっと聞き入り、視察後の記者会見で、「農業は適地適作でいかなかきゃいかん」と述べた。松野も、「黒澤先生の考えは農政の大原則だ」と語った。誓(読みやすくしました)われらは天地の恩、皇恩、祖先父母の恩、社会の恩を片時も忘れず常に感謝して、その恩徳に報いる事を念願して家内の円満融合は言うまでもなく、部落全部が一大家族と心得互いに助け合い一致協力して今日より三か年間は更正の第一期と定め、戦地に血戦しおれる将兵と同じく、血死の覚悟にて相結束して寒暖・風雨・霜雪を厭わず、終日終夜ただ一筋に勤苦いたし、三年の間は衣服類は一切買わず、食物は自給を主としてなるべく買わず、必ず各自の分限に従って分度生活を厳に相守り家畜を愛して、わが家族と心得、糞尿は土地の貴重な食物となれば、いささかも粗末にせず土地を肥やし、一家の食料家畜の飼料を豊富に収穫にする事に専念に差し当たり平均二倍の増収に努め、租税年賦金等は真っ先に自ら感謝して上納し、毎月必ず生計費の四分の一を天引貯金をし、子孫の為め世の為めに、これを実行する事を神の御前に誓う昭和十二年三月十七日富松鉄之助・・・山田威黒澤酉蔵鈴木重光平成31年2月25日現在「二宮先生語録―読み下し・全ルビ、現代語訳―」全92件国立国会図書館 1件都道府県 10件秋田県、福島県、山形県、東京都、富山県、京都府、徳島県、香川県、宮崎県、鹿児島県市立図書館 57件(北海道)江別市、根室市、富良野市、帯広市、旭川市、佐呂間町、八雲町(青森県)五戸市、八戸市(岩手県)久慈市(福島県)南相馬市(栃木県)栃木市、日光市、真岡市(群馬県)渋川市、舘林市(茨城県)筑西市、八千代町(埼玉県)越生町、(神奈川県)横須賀市、相模原市、伊勢原市、大和市、座間市、鎌倉市、大磯町(長野県)安曇野市(新潟県)新発田市、南魚沼市、(石川県)羽咋市(静岡県)掛川市、下田市、御殿場市、菊川市、静岡市、浜松市、森町(愛知県)名古屋市、岡崎市(兵庫県)赤穂市(愛媛県)西条市、伊予市、八幡浜市(香川県)高松市、観音寺市、丸亀市、東かがわ市(徳島県)牟岐町、三好市(高知県)宿毛市(佐賀県)多久市(熊本県)人吉市(宮崎県)小林市、都城市(鹿児島県)薩摩川内市(沖縄県)北谷町大学図書館 25館九州大学、岩手大学、宇都宮大学、三重大学、高知大学、高知工科大学、鹿児島大学、桐蔭横浜大学、水産大学校、北海道教育大学、拓殖大学、沖縄国際大学、小樽商科大学、金沢学院大学、西南学院大学、東北学院大学、高崎経済大学、大東文化大学、聖心女子大学、東海大学湘南、法政大学、酪農学園大学、鹿児島純心女子短期大学、鹿児島県立短大、大倉山精神文化研究所