『徳島県史第5巻』より
12月15日(日)の袋井市での『徳島県技師鳥居信平』の講演準備として『徳島県史第5巻』を読んでいる。なぜ鳥居信平は清国から日本に帰ったあと、農業技師として徳島県に招かれたのかを理解するのに役立つ。『徳島県史第5巻』p.188-191土地利用の推移農業用利用の推移をみるために次の表を掲げる。県下主要作物抜粋(単位:町歩) 明治16年 明治23年 明治33年 明治43年米類 25,159 26,021 28,008 30,404麦類 30,025 32,648 37,007 35,828葉藍 10,017 12,963 14,730 4,842桑 - 245 1,971 4,594徳島県では県下の農業つまり農業用土地利用が明治16年のころ、でんぷん質の食用作物に集中していた。明治23年になると、この傾向が低下して工芸作物が伸びてきている。明治33年になると、さらに工芸作物が伸びている。この急激な伸長率も明治45年には激減した。作物についてみると、葉藍の作付では明治36年を頂点として推移している。桑では明治44年を頂点として作付面積が減少方向へ推移している。工芸作物の作付が減少したあとは明治43年にはうたたび米麦を中心とする食用作物が伸長している。県下の葉藍作付が明治36年を頂点として衰微しはじめるのは、阿波藍に対抗して、安価良質のインド藍とドイツの化学染料が輸入されたことに主原因がある。打撃をうけたのちは、それらの商品作物に代わる新商品作物(桑・かんきつ、麻、菜種)にいろいろ飛びつくが、結局もとの米麦作におちつく。〇『徳島県史第5巻』p.207-211土地利用からみた農業の変遷明治初めにおける徳島県農業は、藍作を中心とした商業的農業の性格を保持する一方、旧来の主穀農業に依存していた。今、明治32年と大正8年との田畑の増減面積をそれぞれ算出すると、田3,900町歩の増加に対し、畑14,600町歩の減少である。田の増加がすべて畑の水田化にあったとしても、残りの1万町歩にあまる畑の減少は何を意味するのか。仮説として当時の焼畑が杉造林の普及によって林地になったと推測する。組織的な杉の植林は徳島県の場合、明治中期以降であった。また、特に畑の減少のいちじるしい郡である那賀・海部両郡が、明治32年から大正8年までの間に、あわせて8,400町歩の減少(全県減少面積の58%)を示すことは、明治中期の組織的な杉の造林がまず那賀川上流から始まり。那賀・海部両郡を中心に進められたことと、地域的に一致する。 明治期は田の率が38%前後で畑卓越だが、明治末から田率が上昇し、大正8年以後は50%台を維持した。見落としてはならないのは、水田の開発である。明治22年から大正8年までの間に増加した田畑3,900町歩のうち、3,100町歩を、名東・名西・板野の三郡で占めており、これらの三郡の畑の減少面積とほぼ一致していることは、この時期における田の増加が吉野川下流地域に集中していること、および畑の水田化であることを示す。 徳島県には「北方」と「南方」という地域的呼称があるが、北方でも吉野川の上流部と下流部とでは、その様相が異なっている。 三地域の耕地面積上、田率が明治初期から高いのは南方地域で水田中心の農業が営まれてきた。上流部は畑中心の農業であるが、下流部では明治末期から大正初期にかけて畑から水田に重点が置き替えられた。 下流部での水田化はどういう要因にもとづくものか。明治22年と大正8年との主要作物別の作付面積の増減および明治22年を100とした指数の表で見てみよう。各作物の作付面積合計で増加しているのは南方地域のみで、土地利用率も88%から100%に増大している。しかも作物別の作付面積は大きな変化はなく水稲栽培を中心とし、養蚕などをとりいれた商品生産化傾向を徐々に示している。これに対して、吉野川沿岸両地域とも作付面積は減少しており、とくに下流部地域にいたっては8千町歩に及び減反ぶりである。それにともなって非常に高かった土地利用率も低下している。このゆおな農業の変更理由は藍作の減少にある。藍作にあっては4~5月に藍を本圃の麦間に移植し、二番藍をとる場合でも8月下旬には終わるので、次の麦作に入る前にもう一作(大豆・そばなど)を入れる一年三作の土地利用が可能であった。そこで藍作の核心地域である吉野川下流地域では200%以上の土地利用率を示していた。明治36年を頂点として藍作の急激な衰退が始まると、従来の藍畑は桑畑として養蚕に転化したり、あるいは開田されて水稲ー麦の一年二作の土地利用となった。水田化の場合は、土木的な水利開発が大きな役割を果たした。上流部では水利開発の点から大部分が桑園に転化したのに対して、下流部では桑園と水田の半々に分化していった。☆県立図書館の地域図書にこれまで寄贈した『報徳記を読む全5集』が並んでいて壮観である。先人から受けた恩徳を、すこしく後の世代に報いることができたであろうか。鈴木藤三郎の「報徳の精神」に曰く、「人は生まれながらにして、既に大変な恩を受けている。故にその恩に奉じなければならない。それが人の道である。ただ自分のためにするということはいけない。既に受けている恩沢に報いるということをもって、生涯勤めなければならない。これがすなわち報徳である。この報徳というものは、一切の人、すべてどのような身分の人でも、恩徳を受けているから恩を返す、それが報徳である。報徳は人間の道である。」〇『徳島県史第5巻』p.212明治32年はじめて耕地整理法が制定公布され、翌33年から施行されたが、これは交換分合と区画整理を主たる事業とし、徳島県では全く事業を行っていない。明治42年の全面改正により、かんがい排水の調節を中心とする土地改良に重点を置き、これに開墾、地目変換等が付加されるという形をとるようになり、徳島県でもこの年以降、大正初期に盛んに土地改良事業が行われるようになった。なお、これと前後して明治41年には従来の水利組合条令が水利組合法として全面的に改正され、また43年には大蔵省預金部の低利融資貸付が開始された。 このような時点における土地改良事業として規模の大きなものは麻名用水と板名用水である。麻名用水について藍作の衰退という点からみると、『麻名用水開さく事業誌』からその動機を抜粋する。「本組合の区域は、吉野川右岸に位し、南は一帯の山嶽をくぎり、西は麻植郡鴨嶋町、西尾村、東は名東郡国府町南井上に連なる平坦の広野にして、その中間に飯尾川の東西に蛇行するのみ。全体の地味肥沃にして最も蓼藍の栽培に適し、206、70年来藍作を主業とし、その利常に米作にまさり、富農の区をもって自ら誇り他またこれを許したり。然るに時代の推移により明治維新後、海外の通商一度開け、科学の発達に伴い外藍の輸入年を追って多きを加え、わが藍価漸く低落し昔日の栄華を夢にだにもする能わざる苦境に陥り、あるいは桑をうえ、あるいは蔬菜を培い、あるいは雑穀、陸稲、柑橘を試みるといえども不確実にして生活を託するの主業とする能わず。いたずらいに作物の選択に苦しみ民力ますます退くのみ。 明治37・8年戦役(日露戦争)にあい、内部の充実急にせまり、また優柔不断に過ぎ去るを許さざる折柄、明治37年の大旱害にかかり民心忽然として米作に傾き靡然(びぜん:なびくしたがうさま)として用水の必要を訴えるに到れり。」藍作の不振から脱却しようとする農民の苦悩が目に浮かぶようであり、それが用水改さくの直接の動機となった事情がよくうかがわれる。「議論百出ついに反対者多数を占め円満に成立する能わず、宿題にふせり。・・・・・・然るに明治37年の大旱害に遭遇し・・・・・・まず名西郡関係町村の意向を定め、もって麻植郡に交渉し宿題の解決を期し、さらに創立総会二回を重ねたる結果、麻植郡川田・山瀬・川島・西尾・鴨島・名西郡高川原の6町村は用水不必要を唱え、ついに法定の賛同者を得る能わず。故にその仮定区域の解除を求め、かたわら麻植郡森山、牛島、名西郡浦庄、高原、石井の5町村に係る用水開設の議を定め、川島古城下より疏通を企て38年1月に新たに1,300町歩の区画を仮定し、その関係町村に創立委員を命じ、3月に創立総代人選挙手続の認可を得、4月に総代人を選挙し創立総会を開くこと数次、組合規定を設定し、7月15日組合規約の認可とともに名西郡長を管理者に指定し、ここに初めて紀年麻名普通水利組合を創立せり。」