近代農業土木の父 上野英三郎
近代農業土木の父 上野英三郎 上野英三郎は1872年三重県津市に生まれ、1895年帝国大学農科大学を卒業、1900年東京帝国大学農科大学講師になった。1899年政府は「耕地整理法」を制定し、上野は農地整理の研究を進めながら、技術者の養成に努めた。鳥居信平は1904年農科大学に入学し上野に学んだ。鳥居は1908年農科大学を卒業し、農商務省勤務後、清国山西省農林学堂に招かれ1911年帰国する。この年上野は農科大学教授に任ぜられた。鳥居の卒業論文は三重県の「宮川地区灌漑組織論」で、上野の指導により水源と灌漑を組織的に考察した。また1914年上野の紹介で、鳥居は徳島県技師を辞し「台湾製糖株式会社」に就職するため台湾に渡った。(*) 上野の「耕地整理講義」は「水路論」(水路設計と必要水量の算定)に始まる。用水路や排水路に必要な流量を、地形で決まる勾配で流すのに必要な水路の断面積を計算するには、水の流れの科学に基づく専門知識(水理学)が必要である。上野は公式を示し、断面サイズと勾配から流量を計算できる数表を与え、また、浮きの速度から流量を測定する方法や堰を越える水の水深から流量を計算する公式と数表を示し、技術者が簡単に測定と計算ができるようにした。鳥居が後に二峰圳などで伏流水を使った地下ダムを建設するにあたって、この公式や数表を活用した。『耕地整理講座』上野英三郎著の自序を読みやすくして紹介する。「我が国の耕地整理事業は今や奨励の期を去って実行の時期に入った。整理の方法について精査すべき時だ。世の多くは漠然と耕地整理の利を説き、その方法により収得する利に大小の別があることを知らず、無意味な設計の下に事を企てる。今日の耕地整理は画一正形の美を飾る(報徳式の耕地整理)ことに急で、実利を収めるに遠回りだ。費やすところ多く、収め得る利を逸するだけでなく、遠からずして事を再び起さなければならなくなろう。農業土木学専攻者として、この誤りを正すことが、自分の責任であると思う。そこで私は一書を作り世に示そうと望んだが、閑暇を得ず、空しく今日に至った。今日の耕地整理事業の進運は私におもむろに原稿を書く時間を与えない。そこで仮に本書を上梓する。本書は以前大日本農会附属東京高等農学校における夏季講習会の講義を基礎とし、公共団体の求めに応じて私が各地で講演したものを集め、序を正し多少補正した。だから耕地整理のことを理論的に深く叙述し尽くしたものではない。記したところは、専ら実用を主とし、直接設計の指針となることを期した。もし設計者が本書を熟読すれば、従来我が国における耕地整理はその面目を多少改め、無意味な設計はやや合理的になることができよう。果してそうであれば本書の目的に足る。」*大正5年 上野博士は台湾農業水利事業地を視察調査 し 用水量に関する見解を発表されている。(a) 台湾製糖会社の鳥居信平氏 氏は大正3年 上野教授の推薦により徳島県技師を辞 し て渡台,昭 和12年常務取締役,同13年 離台,同 社研究部 に転ずる‥。とある。