三遠農学社の八老農 荒木由蔵その3(下久野村復興仕法)
三遠農学社の八老農 荒木由蔵その3(下久野村復興仕法) 明治4年(1871)荒木由蔵は静岡藩庁遠州中泉郡政役所の重役藤沼牧夫の依頼により、山名郡彦島村、松袋井村、高部村、下久野村、堀越村等、現在の袋井市の諸村に報徳の仕法を実践し成功させた。下久野村復興仕法は次のとおりである。(「報徳に生きた人びと」八木繁樹編著p20-22)下久野村は明治4年(1871)当時静岡藩主徳川家達直轄の村で中泉代官が管理していた。年々不作が続き年貢も2,3年滞っていた。当年は特に不作で、食糧の貸下げと稲作の調査(検見)を願い出て郡政役所から下久野村に役人が出張してきたが、役人が来ると田圃の稲は刈り取られていた。役人は村の主だった者を役所に召喚し取調べた上で、手錠入獄に処した。隣村木原村(現袋井市木原)に鈴木藤作という安居院門下の者がいて「この上は荒木先生にお願いする他ない」と下久野村の村民を説得した。藤作が駿河の大内村に訪ねて懇願すると、由蔵は「報徳の勤行(おつとめ)は容易なものではない。お前はもう一度村に帰って、報徳の御要旨はどのようなことがあっても、必ず実行し違背しないという誓約書に村民全員が署名連判させ、それを郡政所にも届けなさい」と命じた。藤作は村に帰り一同にこの旨を話し、連判状を作って郡政役所にも届け出た上で、再び荒木に懇願した。荒木はすぐに来村し、一同を集め「村の概要は藤作から聞いた。この村は年貢が2,3年未納となっている。もってのほかでこの未納を全部上納した上で、報徳の勤行に励むことが斯道(報徳)の本旨である。」と言った。村民は驚き「そんなことできるはずがない」と騒ぎ出した。荒木は「今、説明を始めたところだ。説明が終るまで黙って聞け」と叱り「報徳の大道は、往古神代のご丹精に立ち帰り、神明のご恩徳を報謝する道である。末世永続の方法に至るまで勤行し、村民共に苦しみ、その後に楽しみを共にする道である。だから年貢の2,3年の未納は残らず上納しろ。家屋諸道具一切を売り払い、河原に掘立小屋を造ってそこに移住せよ。どうだ、一同、これを承服するか」と説いた。村民は騒然としたが、外に名案もなく、結局由蔵の言うとおりすることとし、連判状に調印した。由蔵はこれを携え郡政事務所におもむき重役藤沼に面会を求め、これまでの経過を報告し、未納分の年貢は全部上納すると上申した。藤沼は「暫く待て」と奥へ引込み3時間余り待たせた上「今すぐに家財を処分して未納分を上納しなくてよい。人民も困窮しているだろうから食糧百俵と金二百両を下げ渡す。また手錠入牢者は直ち放免する。村民によく報徳の道理を教え一日も早く下久野村が再起できるよう指導願いたい」と回答した。荒木はこの旨村に帰って伝えると、村民一同狂喜し、涙を流し感動し、報徳の教義を全村挙げて実践することを誓った。数年後に再興仕法は成功した。