台湾から日本に
台湾から日本に鳥居信平が台湾から日本に帰国後の状況については不明な点が多い。大阪朝日新聞一九四二年一二月二九日((昭和一七年)の記事で「科学技術審議会委員の顔触決る 民間五十五氏起用二十八日官制公布となった科学技術審議会の職員は同日左のごとく決定した、総裁ならびに副総裁には東條首相、井上技術院総裁がそれぞれ就任、委員には星野内閣書記官長以下百八十三名が選任されたが、このうち民間代表は多田科学動員協会理事長以下五十五名となっている、なお幹事は内閣はじめ企画院、技術院その他関係各庁の書記官、調査官、参技官、事務官、技師など五十二名が選ばれた」とあり、総裁・内閣総理大臣東條英機、副総裁・技術院総裁子爵井上匡四郎、【民間側】の委員として農地営団副理事長 鳥居信平とあります。 また、これから遡ること三年前の読売新聞一九三九年(昭和一四)九月十四日に「興亜院技術委員会 官制公布・委員、幹事発令」という記事が載っています。「大陸建設に重要なる役割を担当すべき興亜院技術部に対応して興亜院総裁の諮問に応じて技術部面に関する重要事項の調査審議に当るべき興亜技術委員会官制は十三日付官報を以て公布されたが同時に委員、幹事も発令された技術委員会官制第一条 興亜技術委員会は内閣総理大臣の監督に属し興亜院総裁の諮問に応じて興亜院の管掌に属する技術に関する重要事項を調査審議す第二条 委員会は会長一人及び委員五十人以内を以て之を組織す前項定員のほか必要ある場合は臨時委員を置くことを得第三条 会長は興亜院総務長官を以て之に充つ、委員及び臨時委員は内閣総理大臣の奏請により関係各庁高等官及び学識経験ある者の中より内閣において之を命ず、委員の任期は二年とす、但し特別の事由ある場合は任期中之を解任することを妨げず第四条 会長は会務を総理す、会長事故あるときは会長の指名する委員其の職務を代理す第五条 委員会に部会を置き其の所掌事項を分掌せしむ、部会に部会長を置く会長の指名する委員之に当る、委員及び臨時委員の所属部会は会長之を定む、会長必要ありと認むるときは二以上の部会の合同会議を開くことを得第六条 会長が特に総会を開く必要ありと認めたる場合を除くの他部会又は前条の合同会議の決議を以って委員会の決議とす第七条 委員会に幹事を置く内閣総理大臣の奏請に依り内閣に於て之を命ず、幹事は会長の指揮を承け庶務を整理す第八条 委員会に書記を置く内閣に於て之を命ず、書記は上司の指揮を承け庶務に従事す本令は公布の日より之を施行す」とし、「委員」に「鳥居信平」があります。さらに「興亜院技術委員会経過説明書」によると委員会は五部会(第一部会(交通通信関係)、第二部会(水利関係)、第三部会(農林畜産関係)、第四部会(鉱工業関係)、第五回部会(厚生部会))からなり、第二部会(水利関係)に「鳥居信平」の名前があります。台湾での二峰圳等での実績を踏まえた適役として選任されていることがわかります。興亜院は日中戦争中の一九三八年(昭和一三年)十二月、勅令第七五八号により内閣総理大臣を総裁として、対中政策、中国占領政策を担当し関係各省庁を調整する機関として設置されました。その活動の重点は占領地の経済運営に置かれ、経済運営や開発に資するため数多くの技術者を動員して大規模な調査を行っていました。鳥居信平が台湾から日本に帰国するに至った事情は「台湾に水の奇跡を呼んだ男 鳥居信平」平野久美子著(二〇二〇年三月二十二日発行潮書院光人新社)一八五~一九二頁に詳しい。要点を抜粋すると一九三四年(昭和九)信平は取締役に就任。一九三七年(昭和十二)十月常務取締役に昇進。一九三八年(昭和十三)視力の衰えのため退任。 東京へ戻った信平一家は、以前分家の折に建てた新宿区西大久保の家に住んだ。一九四一年(昭和十七)信平は土地改良と知識をかわれて『農地開発営団』副理事長に就任。食糧の自給増産を目標に阿武隈川上流・白川矢吹・新安積・山手山麓などの開墾にあたった。一九四五年(昭和二十)五月二十五日アメリカ軍の空襲により新宿の鳥居家母屋は全焼。信平はかろうじて逃げ出した。この時に信平の蔵書や資料はすべて灰になってしまった。 信平は敗戦後も海軍省の復員兵を受け入れる信州小淵沢の野辺山開拓村の開設をまかされた。一九四六年(昭和二十一)二月十四日農地開発営団事務所で海軍省担当者と打ち合わせ中、脳溢血を起こし、翌日十五日死去。享年六十三歳。 「高冷開拓地・八 ケ岳山麓野辺山における集落の変貌」小笠原節夫によると「野辺山開拓の発端は一九三五年小海線の開通,野辺山駅の開設がきっかけとなった。一九三九年 三井財団によって大滝農場約四〇ヘクタールが 森林の伐採・抜根によって開墾に着手されたが当時はまだ永久的な農耕集落の成立をみるにいたらず,ただ伐採人、炭焼き人小屋が野辺山駅前にあったにすぎない。一九四三年陸軍が演習場として当地を接収するにおよんで開拓は中絶した。接収にさいして旧国有林については問題がなかったが、現開拓地南部と駅前の北東南西にのびる狭長な入会地の接収にあたっては接収解除後入会部落に返却する旨の契約を行っており、また文部省用地(その南部が現信州大学野辺山農場)は接収されなかった。当時は大滝農場を除いては一面のからまつ林であった のを兵隊および付近の住民を使用して伐採にあたらせた。戦後この軍用地七一二ヘクタールは農地開発営団、東京農地事務局をへて長野県が開拓を代行することになって今日に及んでい る。入植が始まったのは一九四六年農地開発営団 の管轄下の時期で入植者は海外引揚者(旧満州開拓民と台湾製糖会社社員)、陸軍現地除隊者が大部分をしめ、他に付近農村の二・三男を含めた百十数戸で、旧陸軍の兵舎に雑居 していたが、彼等は入植と同時にそれぞれの出自によって組合をつくり,これを単 位として土地の仮配分を受け開墾に着手した。組合は七個(後八個に増加)あって土地の配分について相互に対立し、開墾事業・道路建設・営農計画の樹立の点で足並みがそろわない ままに一九四八年初めに兵舎を解体して各戸に配分し、入植者は属する組合の土地の中に組合単 位に住居を建設した。」とある。信平が引き続き目が不自由なまま、野辺山開拓村の開設に携わったのは、台湾製糖会社社員の内地での受け入れ先を確保する目的もあったように思料される。『台湾に水の奇跡を呼んだ男』文庫本(2020年3月22日発行)p.190に信平が妻まさに宛てた手紙が収録されています。空襲で東京の家が焼失し、落胆と共に妻への慰労の手紙です。「お互に老年となり、其の様に別れて生活するのが私として本意ではない」と妻への気遣いに溢れた信平の人となりを知ることのできる素敵な手紙です。〇本書は主として技師時代の鳥居信平の著述集として現在(二〇二一年三月時点)で判明・収集した資料を編集したもので、特に徳島県技師時代の資料を新しく発掘し収集しました。台湾から日本に帰国後の鳥居信平の活躍については今後の探求研究がまたれます。