ケダにおけるサティヤーグラハ
ガンジーはアーメダバードの功績工場のストライキが終るか終らないうちに、ケダのサティヤーグラハ闘争に身を投じた。ケダ地方では不作のために飢饉になっていた。ケダの小作人は税を一年間免除してもらうことを願った。地租徴収規則では、収穫高が4アンナ(1ルピーの4分の1)以下のときは耕作者は1年間の徴税停止を請求でき、正当な要求だった。政府の調査では、収穫高は4アンナを超えているといい、仲裁も認めなかった。ガンジーは請願を行ったが、聞き入れられなかったので協働者たちと相談し、サティアーグラハに訴えることを農民に勧告した。「われわれの各村落の収穫が4アンナに達しないことを知って、われわれは政府に対し、来年まで税の徴収を停止するよう要請した。しかし、政府はわれわれの嘆願を聞き入れなかった。したがって、われわれは、本年の納税額の全部を政府に支払わないことをここに宣言する。われわれは政府が適切と思う法律的措置をこうぜしめ、われわれの納税拒否から生まれる諸結果を甘受しようとするものである。われわれの要求が虚偽であると考えられたり、われわれの自尊心を傷つけるより、むしろわれわれの土地を没収されることを望むものである。しかし政府が、全地区にわたって、納税分の徴収を停止することに同意するならば、われわれのうち支払いのできる者は、税額の全部または残額を支払うであろう。支払い能力がある者が今支払いを控えているのは、貧しい農民が恐怖を感じて家財道具を売ったり借金したりて貧しい農民に災いを及ぼすのを避けるためである。このような事情のもと、支払い能力のある者が貧しい農民のために支払いを差し控えることはわれわれの義務である」ケダの闘争は毎日新聞をにぎわせた。グジャラートの人々は、この闘争に深い関心を示し、闘争のために寄付しようとするものが続いた。サティヤグラハは金額によって簡単に動かされるものではなく、金銭は必要とされないものが理解されていなかった。サティヤグラハに志す者は、質素ということを学ばされた。生活全般の変革が必要とされた。大切なことは役人は人民の主人ではなく、反対に彼らが納税者から俸給をもらっているかぎり、人民の召使である、ということを農民にわからせて恐怖心を取り除くことであった。それから粗暴に走らないこと、恐れないことをあわせ持たなければならない。農民がひとたび役人を恐れなくなるとき、どうしたら農民が受けてきた侮辱を役人に仕返ししないようにできるか。もし農民が粗暴な行為に訴えたならば、ミルクのなかに一滴の毒物をたらしたように、サティアグラハを台無しにしてしまう。粗暴に走らないということは、その場限りの外見だけの穏やかな話しぶりだけではない、生まれながらの穏やかさと敵に対する善行である。納税拒否の民衆の態度が変わらないとわかると、政府は脅迫しはじめた。役人は農民の家畜を売り払い、手当たり次第家財を差し押さえ、処罰をしだした。青田まで差し押さえられた。農民は弱気になり、幾人かは納税分を支払った。浮き足立った人々を強くするため、ガンジーは自分の意見からすると間違って差し押さえられた畑からネギをとってくるよう人々に勧めた。ガンジーはこれを法律違反とは見なしていなかった。差し押さえの令状を無視して、ねぎを取ることは民衆の義務であるとまで示した。このような不服従の必然的な結果は、罰金か投獄かである。ガンジーは民衆が進んで罰金を払い、入獄して教訓を学ぶよい機会であると考えた。シリ・モハンラル・パンディアは、サティアグラハの精神にかなった行動によってそのために投獄されたりして苦しみを受ける、そんなことが起こらないでこの闘争が終ることを心配して、志願して7,8人の友人とともにネギの抜き取りを行った。政府は当然彼らを逮捕した。彼らの逮捕は民衆を熱狂させ、牢獄の恐怖が消えると、弾圧が彼らを元気付けた。群集は裁判所に押し寄せ、有罪を宣告された「犯人」たちはネギ泥棒という称号を与えて彼らを讃えた。マムラトダル地方の役人から「もし裕福な農民が税金を支払えば、貧乏人のは停止されるだろう」と言ってきた。ガンジーは書面による保証を要求した。ガンジーはさらにその地方全体にわたって保証ができる徴税官にマムラトダルの保証は地方全体にあてはまるか尋ねた。徴税官は、マムラトダルの書面どおりに中止命令はすでに発せられていると返事した。そこでサティヤグラハ運動は終結したが、ガンジーは手放しで喜ばなかった。サティヤグラハ運動の終末は、それが運動者を初期よりも強力にし、活気ある者にした場合にのみその名に値する。しかし、ケダのサティヤグラハは農民の自覚の始まりであって、真の政治教育のはじまりであった。サティヤグラハは、苦痛と犠牲に耐える能力にかかっているという教訓は人々の心に消すことができないほど深く刻まれた。