原因究明へ各国から独立調査の要求
各国が「独立調査」要求=ガザ衝突の責任、米イスラエルと対立【エルサレム時事】パレスチナ自治区ガザで、米国の在イスラエル大使館移転に対する抗議デモに参加したパレスチナ人多数が死傷した衝突を受け、原因究明へ各国から独立調査の要求が出ているが、イスラエルや米国は拒否している。欧州は調査による責任追及を求め、中東のイスラム諸国からも「ジェノサイド(集団虐殺)だ」(エルドアン・トルコ大統領)と反発がやまない。強硬な態度を崩さない米国やイスラエルとの対立が一段と深まっている。ガザで14、15の両日行われたデモで、パレスチナ人の死者は60人以上。イスラエル軍が実弾を発砲して鎮圧を試みたことから犠牲者数が膨らんだ。 悲惨な事態を受け、イスラエルと敵対する国からは「国際社会が迅速に行動し、イスラエルの首脳らを戦争犯罪者として裁くべきだ」(イラン外務省報道官)と最大級の非難の言葉が浴びせられている。トルコ、南アフリカが駐イスラエル大使を召還する事態にもなった。 独立調査には、欧州各国が「暴力的な出来事と、流血を伴う違反行為を明らかにできる」(ドイツ)と前向きだ。メイ英首相は15日、「これほど多くの実弾がなぜ使われたかなどを調べるため、独立した透明な調査が早急に必要だ」と強調した。 しかし、イスラエル軍は、今回のガザでの発砲は「正当防衛だ」と譲らない。ガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマスのメンバーがデモに乗じ「ガザ北部から防護フェンスを越えて、イスラエル領内への侵入を図った」と訴えている。(2018/05/16)『20世紀のユダヤ思想家』サイモン・ノベック著レオ・ベック(Leo Baeck,1873-1956)ベルリン・ユダヤ人コミュニティーのラビであったレオ・ベックは、1873年、プロシアのリサで生まれた。ラビの家庭に育ち、祖父も曾祖父もラビの家系で、母も有名なラビの娘だった。父サムエルはリサのラビとして奉仕し、尊敬されていた。サムエルは『ユダヤ民族とその文学の歴史』などの著書がある。ベックは忠実なユダヤ人であると同時に、忠実なドイツ人であるように育てられた。ナチがレオ・ベックを脅迫した後でさえ、基本的に彼の態度は変わらなかった。1891年レオはリサのギムナジウムを卒業後、ラビになる決心をし、プレスラウのユダヤ人神学校を選んだ。この時期のベックについて同僚の学生は、彼がどの教科も優秀だったが「教科以外の活動」(世俗の遊び)は故意に避けたと証言している。ある時、どうして遊んで気晴らししないのかと聞かれて「過去の偉大な思想家の著書や瞑想から受ける楽しみ以上の遊びや精神的楽しみはない」と答えている。数年後「ユダヤ教の科学のためのアカデミー」に入学し、同時にフリードリッヒ・ウィルヘルム大学に入学し、哲学の学位を得るため勉強した。ベルリン大学の学位論文『ドイツ思想へのスピノザの第一の影響』は高い評価を得た。24歳の時、オッペルンのユダヤ人コミュニティのラビに任ぜられ、10年間その職にとどまり、いくつかの著作を出版した。1907年ベックは、ラインハルトのデュセルドルフのラビに任命された、『ユダヤ教の本質』の著書で有名になった。これはプロテスタントのアドルフ・ハルナックの『キリスト教とはなにか』に答えるために書かれ、ベックはドイツ・ユダヤ人コミュニティの精神的指導者となっていった。1912年ベックはベルリンのユダヤ人コミュニティによって招聘された。ベックは決して大衆的な説教者ではなく、「会衆に重い知的要求を課した。」彼は公衆の前で冗談も言わなかったし、「私は」という言葉を使わなかった。第一次大戦がおこると、ベックはユダヤ人の従軍ラビに指名され、ユダヤ人兵士に聖書やタルムードを教えた。ドイツの敗北は彼を挫折させた。ベックは宗教としてのユダヤ教の優位性を語り、イエスを一人のユダヤ人であると主張し、ユダヤ教の伝統の中にイエスの位置を戻そうとした。『歴史書としての福音書』は、イエスをメシアの概念に一致させるために後代に付け加えられた部分を取り除いて再構成した。ベックはユダヤ教を古典主義的宗教、キリスト教を浪漫主義的宗教とした。浪漫主義的宗教の明確な特徴はその「陶酔的な自己放棄」にあり、「思考は単に感情の願望に過ぎない」古典主義的宗教であるユダヤ教は「不合理的なことが人生の深い意味であり、それがトーラーの源泉である」。ベックは「ユダヤ教は新たな勢いをもって勇躍するであろう」とした。ナチズムが台頭したとき、ベックはその危険をかるく見ていた。1933年にヒトラーは権力を掌握し、650万人のユダヤ人絶滅を準備しはじめた。ヒトラーは「ドイツ・ユダヤ人帝国代表者会議」を組織し、ベックはその議長となった。ベックは文化的ゲットーが可能と思っていたが、それは幻想にすぎないことが証明された。1935年ニュルンベルグ法が公布されると、ベックはナチスを公然と批判し、何度もゲシュタボに拘引された。ベックは友人からドイツを離れるように勧告されたが、とどまって同胞の苦しみをやわらげることがラビの道徳的な義務として忠告に応じなかった。1943年1月、ベックは収容所に移送されることになった。72歳のベックはチェコのテレジエンシュタットの収容所の長老会議の議長に指名され、解放まで2年間収容された。アドラーによればベックは自分自身をこのゲットー以外にもう一つの世界が存在する証人と考えた。ベックは収容所の良心の権化となり、精神的抵抗運動の中心となった。ベックはユダヤ人に対する前例のない迫害に対して受動的な抵抗し、飢餓と感情的苦難の中で心身ともに破綻することなく生き延びた人物となった。ベックは解放後、ドイツを去り、ロンドンに移住した。彼はドイツのユダヤ教は過去のものとなり、ユダヤ教の中心はアメリカ合衆国に移ったと思った。彼はユダヤ教の存続のためには二つのセンターが必要であり、その一つはイスラエルであり、もう一つは民族的苦難の時代に外部の世界から道徳的・文化的・経済的支援をイスラエルに与えることができるセンターであり、それは世界最大のユダヤ人人口を持つアメリカ合衆国がその役割を果たすよう要求されているとした。ベックは「この民ーユダヤ人の存在」において「ユダヤ人の独自性は 一つの民が特異な起源と根拠を一人の御方にもつという事実にあり、その御方は宇宙の根拠であり起源である唯一なる神である。・・・・すべての民の中で、イスラエルの民のみがその存在の始原からこのことを経験し、それを永久に保持した。」「人間を造るのは理念ではなく、むしろ理念からなにかをつくるのが人間である。このことは民族全体にも個人にもあてはまる。・・・・われらの人生は・・・将来かくなるものによって成就される。・・・本質的なことは我々がそれらから何をつくりあげるかにある。」いったいユダヤ教の存続のためには二つのセンター、イスラエルとアメリカ合衆国は「正義と愛をとおして人類をあがなう」というベックのいうユダヤ教の本質を実現するのであろうか。