「二宮尊徳の現代的意義」下程勇吉
「二宮尊徳の現代的意義」下程勇吉後世への遺物 (略)「純粋なる宗教問題」を取扱わぬこの講演そのものが著者自身の「後世への最大遺物」の尤なるものといわれよう。青年時代に頼山陽の詩「十有三春秋、逝者已如水、天地無始終、人生有生死、安得類古人、千載列青史」に共感した著者はやがてキリスト教によってその「野心」を冷却させれたが、年とともにこの地上に「私の愛情を遺して置きたい」という「一つの希望」を抱くようになる。「私に50年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、この我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくないとの希望が起こってくる。どうぞ私は死んでから、ただに天国に行くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺していきたい。私の名誉を遺したいというのではない。ただ私がどれほどこの地球を愛し、どれだけこの世界を愛し、どれだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いていきたいのである」こうした人倫界へ寄せる言葉をきいた相州の地は半世紀前(天保11年1月22日)に二宮尊徳からも次のような言葉をきいたのである。「人この世界に200文もって生まれ200文もって去り候はば、何一つ世界に残すものはなきはずなり。然るに、開闢以来、その分限に応じ百なり二百なりこの世に残し候故、世界相続の道相立ち・・・・・・幾千万歳相続、今何一つ欠けたることなく、ありがたしとも言葉にたへがたき御代なれば、此の恩を思ひ候て報ゆるの心なきものは人にして人にあらざるべし」 もちろん著者はこんなことを知っているわけでもないのであるが、ただに偶然的な地理上の一致以上に著者と尊徳の間には魂のつながりがあるのである。封建的な尊徳は主に「報徳」の立場を見るが、著者はすべてを「後世の為に」の見地から考える。こうした相違にもかかわらず、純粋人間性の深奥に徹した2人の代表的日本人は「少しなりともこの世の中を善くしてゆきたい」という信念をもって多難なる人生を一筋に歩みぬいた魂であった。 2 著者は「毎日讃美歌ばかり歌って少しも苦痛を感じない、いわゆるキリスト信者」ではなかった。著者は人生百般の問題が「煎じ詰めて見ればやはり金銭問題である」こともはっきり見ぬいていた。それだけに「金を以て神と国とにつかえようという清き考えをもつ青年」の奮起を要望し、次のごとくいっている。「金を儲けることは己れの為に儲けるのではない、神の正しい道によって、天地宇宙の正当なる法則にしたがって、富や国家のために使うのであるという実業の精神が我々の中に起こらんことを私は願う」かかる精神より遺された金こそはまさに後世への最大遺物の一つたることを失わない。これも著者は一言もふれていないが、かかる精神から遺されて「国用の根元」たるべき「多年辛苦の浄財」が二宮尊徳の報徳金であったのである。報徳金くらいその点に関する明確なる自覚をもって後世に遺されたものも稀である。「人は死すともこの徳尽くること能はず」と報徳仕法に関して尊徳が語っているのも偶然ではない。 3 しかし後世に金を遺すことは必ずしも何人にも出来ることではない。後世の為に金を遺し得なくても、「事実」をこの地上にとどめ得る人がある。著者はここでは後世への最大遺物の第二のものとして「事業」をあげるのである。多くの事業のうちでも著者は「一番誰にも分る」ものとして土木事業に言及する。「一の土木事業を遺すことは、実は我々に取っても快楽であるし、また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います」と考える著者は芦ノ湖から出る水門を600年前に掘った兄弟の事をのべ、「実にその兄弟は仕合せの人間であったと思います。もし私が何も出来ないならば、私はその兄弟にまねたいと思います」と語るのである。「人が見てもくれない、褒めてもくれないのに、生涯を費やしてこの穴を掘ったのは、それは今日に至っても我々を励ます所業ではありませんか。」 ここでも私は二宮尊徳の「事業」を想起せざるを得ない。著者はまたなんらそれに言及しないのであるが、治水土木開墾の工事こそ尊徳の最も得意とする領域であったのである。各地に二宮又は報徳の名を冠し多くの遺跡をとどめるその開墾植林土木治水灌漑工事こそは、二宮精神が今日なお地上において新しくものを作り出しつつあることを確証するものである。著者が第二の「後世への最大遺物」としてあげる「事業」こそは、二宮教学を書斎の学より区別する所以のものであったのである。 4 次に後世のために金も事業も残し得ざるものはいかん。これらの遺物は直接に社会的活動をなしうる人にまたななければならない。かかる方面を得意とせざるものもなお一つ遺すものをもっている。すなわち思想である。外的なる金銭や事業を遺し得ぬものにも、内的なる「思想」を遺し、またこれを若い魂に注入する「教育」という道が残されている。生きている間に自分の精神を実行できぬならば、それを「筆と墨とをもって紙の上に遺すことが出来る」のである。著者はここで日本外史などを例にひいて後世に影響を及ぼす「文学」の位置と意味とを説いている。著者においても漱石におけると同様に、文学はただのきれいごとではなく「戦い」なのである。「文学は我々がこの世界に戦争する時の道具である。」「将来未来までに我々の戦争を続ける考えから事業を筆と墨にのこす」のが文学である。源氏物語式の情感的な小説や詰らぬ議論のはりまぜ屏風のような論文ではない。我々の心に宿って来る「鬱勃たる思想」をありのままに書いて人の「心情」に訴えるものこそ「文学」なのである。かかる文学にして著者が考える後世の最大遺物なのである。 私はここでも二宮尊徳に関してその「文学」を思いおこすのである。彼もまた明確なる自覚をもって後世に自己の文学を遺した人の一人である。ことに全門下を動員し門外不出2か年3か月にして完成した日光仕法雛形に関する「報徳記」の叙述は、このことを明らかに示している。「我が積年丹誠するところの仕法悉く筆記し之を奏せん。此書一度全備する時は、仮令道行はれずといふとも、仕法の仕法たる所以は万世に及て腐朽すべからず。孔子一世道を行ふことあたはざるも、其書永世に朽ちずして道益々明かなり。二三子それ之を勉よ」云々。しかしかく改まった態度で書かれた日光仕法書や体系的に完成した金毛録等の「文学」よりも却って我々をひきつけるものは、尊徳が備忘的に書き残した断片や日記やまた書簡であり更には道歌集「三才独楽集」等である。これらは明かに「心情に訴へる文学」である。ことに烏山藩の菅谷八郎右衛門その他に与えた書簡のごときは強靭至誠の魂が火花を発して人の胸に迫るもの、まさに「鬱勃たる思想」をぶちまけた大文学として許されるものである。 次に文学に携われぬものは学校の先生となり、「教育」に従い、魂から魂へと「思想」を残し得るのである。しかしここで著者は「我々が学校さえ卒業すれば必ず先生になれるという考えを持ってはならぬ。学校の先生になるということは一種特別な天才だと私は思っています」といっている。先生というものはただ学問を切売りする人ではなくて、学問そのものに対する「興味を起こす力をもった人」でなくてはならない。この点からいって尊徳は全き意味で「先生」であったといえる。 5 最後に、後世のために、金・事業・思想そのいずれも残し得ざるごとき「平凡の人」はいかん。しかも著者の鋭い眼光は上の三者ともにその長所に必然に伴う弊害のあることをちゃんと見抜いている。ここに問題は次のことに集中するのである。誠をつくすかぎり誰にでも出来てしかも弊害を伴わざる「後世への最大遺跡」は何であるか。利益ばかりあって誰でも遺すことのできる「本当の」最大遺物は何であるか。曰く、「勇ましい高尚なる生涯。」「この世の中は悲歎の世の中ではなくして、歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物としてこの世を去るということ。」これが「誰でも遺すことの出来る贈り物」である。至誠実行の生涯そのものが「後世への最大遺物」である。至誠の実践は時間そのものにおいて時間をこえるのである。かかる生涯にくらべると、その人の事業も著述も「実に小さい贈り物」にすぎない。 このことがあますところなく妥当するものこそ、二宮尊徳の生涯にほかならない。彼自身「我が道は至誠と実行のみ」と語ったその生涯そのものに比すれば、その著述のごときは水上にあらわれた氷山の部分に過ぎない。第一から第三までの遺物に関しては二宮尊徳になんら言及しなかった著者は、第四の遺物を語るに及んでその典範として二宮尊徳をあげ「近世の日本の豪傑、あるいは世界の英傑といってもよい人」とまで許すのである。著者が読んだ尊徳関係の文献はほとんど「報徳記」の一巻を出ないのであるが、著者は「この本は我々に新理想を与へ、新希望を与へてくれる本であります」といい、「この人の伝を読みました時は私は非常な感覚を貰った。それでどうも二宮金次郎先生には私は現に負う所が実に多い」と語っている。その「非常な感覚」とは何をいうのであろうか。それは「人に頼らずとも我々が神に頼り己に頼って宇宙の法則に従えば、この世界は我々の望む通りになり、この世界に我が考えを行うことが出来るという感覚」である。この感覚から出発するものは、己の生涯を己の主義に捧げて生き、「我々の出会う艱難に就いて我々は感謝すべきではないか」という一境に徹し得るのである。幼時より艱難という艱難に出会い、その間に報徳の道こそ天地人を一貫する道であるという哲理に徹したのがまさしく二宮尊徳であったのである。思うに人生の災難をすべて試練としてとらえる実践の道には、私にして私以上のもの、時間にして時間を超えるものが宿り来るのである。まさに神と人とを貫く一つのものが生きて来るのである。著者は「我々は神が我々に知らしたことをそのまま実行いたさねばなりません」と語るのであるが、ここの「神」の語を「天」に置きかえればそのまま尊徳の立場となるのである。ここには日本精神史の深奥を貫く一つのものが厳として生きているのである。ここから著者はもとより「洗礼を受けた二宮尊徳翁」とまで称される留岡幸助氏などがひとしく二宮尊徳に深い精神的なつながりを感じたゆえんも理解せられるのである。醇乎(じゅんこ)として醇なる日本的真実の発するところ、キリスト教的立場の人々もこれに帰一するがごときものこそ、八紘(こう)をおおいて宇と為す〔『日本書紀』巻第三神武天皇の条に「掩八紘而爲宇」とある。天下を一つの家のようにすること〕ゆえんのものであろう。徒らに他を排して自己の独自性を証明せんとすがごときは気宇狭小にして「あさみどり澄み渡る大空の心」を知らぬもののみである。 著者はこの講演を次の言葉で結んでいる。「我々に後世に遺すものは何もなくとも、我々に後世の人々にこれぞというて覚えられるべきものは何もなくとも、あの人はこの世の中に活きている間は真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけの事を後世の人に遺したいと思います。」しかしかかる生涯から何一つとして生れぬと考えられるであろうか。世を辞するその前年69歳に達した尊徳は安政2年の末頃の日記に次のごとく書きのこしている。「千秋楽万歳楽、予が足を開け、予が手を開け、予が書翰を見よ、戦々兢々として深淵に臨むが如く薄氷をふむが如し。」大力量を擁して細心緻密真摯恭謙、よく「一以て貫く」の人生の大道に生き抜いたところに、著者があげた4つの「後世への最大遺蹟」が尊徳70年の生涯において結晶したといわれるであろう。才をたのまず勢いに寄らず、ただ己の誠を深めて清明大和よく天に至るもののみが神国の歴史的生命に参ずるというほかはない。著者及び我が国のキリスト教史についてほとんど知ることなき私はこの小著を読みてまたしてもかかる感慨を感じ得ぬのである。(昭和19年7月4日)★昭和19年とはいかなる年であったか。太平洋戦争末期で日本の敗北が濃くなり、11月には東京大空襲が始まる。2.17 米機動部隊,トラック島を空襲。日本海軍,艦船43隻・航空機270機を失う。5.5 大本営,防衛総司令官に本土決戦準備の一環として本土内の各地上軍・航空部隊などの統率・指揮権を付与。6.15 米軍,マリアナ諸島のサイパン島上陸(7.7日本軍守備隊3万人玉砕,住民死者1:万人)。6.16 中国の成都から飛来した米軍機47機,八幡製鉄所を爆撃。6.19 太平洋戦争中最大のマリアナ沖海戦(~20)。空母3隻・航空機430機を失っで惨敗。7.4 大本営,インパール作戦の中止を命令(死者3万人,戦傷病者4万5000人)。7.18 東条内閣総辞職。7.22 小磯国昭(陸軍大将)内閣成立。海相米内光政。10.12 台湾沖航空戦。大本営,事実に反して「大戦果」を発表。10.18 陸軍省,兵役法施行規則改正公布。 17歳以上を兵役に編入。10.24 レイテ沖海戦始まる。空母4・戦艦3ほか26隻,航空機215機を失い,連合艦隊事実上壊滅。10.25 中国の各米軍基地から飛来したB29約100機,北九州一帯を爆撃。11.24 マリアナ基地のB29約70機,東京を初空襲。以後,日本本土各地への爆撃が本格化。こうした世情の推移のなかで、下程勇吉氏は「二宮尊徳の現代的意義」を説き、内村鑑三の「後世への最大遺物」により二宮尊徳の報徳の道を読み解いて、「人生の災難をすべて試練としてとらえる実践の道」を説く。