敬和学園大学図書館が「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」「報徳記を読む第4集」を蔵書としていただいた。感謝!
平成29年6月4日現在「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」全143館国立国会図書館 1件都道府県 13件茨城県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 長野県 富山県 静岡県 徳島県 香川県 長崎県 佐賀県 鹿児島県 鹿児島県立奄美市立図書館 79館恵庭市 北見市 帯広市 江別市 京極町 別海町 厚岸町 新冠町 比布町 青森市 八戸市 五戸町 二戸市 岩泉町 花巻市 名取市 金ケ崎町 大槌町 加美町 郡山市 新地町 会津若松市 いわき市 南会津町 日光市 那須烏山市 真岡市 桜川市 越生町 江東区 相模原市 藤沢市 厚木市 海老名市 伊勢原市 葉山町 御殿場市 掛川市 磐田市 湖西市 浜松市 下田市 三島市 菊川市 富士市 静岡市 袋井市 森町 小山町 岡崎市 愛西市 名古屋市 白馬村 南魚沼市 五泉市 新発田市 滑川市 富山市 黒部市 羽咋市 加賀市 南丹市 大阪市 尼崎市 あわら市 大洲市 土佐市 宿毛市坂本 三好市 佐世保市 日田市 臼杵市 上天草市 都城市 日置市 姶良市 指宿市 北谷町大学図書館 50館東京大学 京都大学 北海道大学 東北大学 九州大学 九州理系 岩手大学 福井大学 高知大学 徳山大学 長崎大学 酪農大学 桐蔭横浜大学 北海道教育大学 大阪教育大学 北海学園大学 聖隷クリストフアー大学 東京農業大学オホーツク校 東洋大学 鹿児島県立短期大学 沖縄国際大学 高知工科大学 駒澤大学 昭和女子大学 近畿大学 関西国際大学 武庫女子大学 立命館アジア太平洋大学ライブラリ 群馬県立女子大学 聖心女子大学 法政大学 青山学院大学 東洋大学 西南学院大学 金城学院大学 関東学院大学 國學院大學 神戸学院大学 鳥取短期大学 鹿児島純心短期大学 九州産業大学 神戸学院大学 福岡大学 東北学院大学 山梨学院大学 豊橋創造大学 鹿児島県立短期大学 放送大学神奈川学習センター 敬和学園大学 大倉山精神文化研究所敬和学園大学は、新潟県新発田市富塚1270に本部を置く日本の私立大学である。1991年に設置された。大学の略称はKEIWA。 キリスト教精神に基づくリベラルアーツ教育を行う。新潟は内村鑑三ゆかりの地である。キリスト教精神に基づくリベラルアーツ教育を行う敬和学園大学が創立されたのもその縁からである。敬和学園大学 図書館だより(2013年1月号)[2013-01-16]学生に推薦したい本(教授 大澤 秀夫)最初の一冊は内村鑑三の若き日の自伝『余は如何にして基督信徒となりし乎』である。岩波文庫に入っているので、誰でもすぐに手に入れることができる。記憶がはっきりしないが、たぶん私が読んだ最初の岩波文庫が、この本である。岩波文庫といえば、小学校6年のときに、友だちが文庫の『ファーブル昆虫記』を読んでいてビックリした。今では奥本大三郎の翻訳による大判の綺麗な本が出ているが、その頃はたくさんの分冊が出ていた。私のまわりには岩波文庫なんかを読んでいる小学生は皆目いなかったので驚いたのである。そんなわけで中学生になって自分が岩波文庫を初めて買ったときには、おとなになった気がしてずいぶん感激したものである。鞄の中にいつも持ち歩いていたのだが、いつのまにか無くしてしまった。口惜しかったことを憶えている。私の家はキリスト教とはまったく関係がなかった。ところが、その私が小学六年生のクリスマスに突然、教会に行くようになった。お菓子を貰いに行ったのである。餌につられて始まった不純な教会通いが、今でも続いている。自分としては、お菓子以上の収穫をいただいたのだ、と感謝している。教会には溢れるほどの子どもや若者たちが集まっていた。先輩の大学生に教わったのが、内村鑑三の若い日の伝記だった。鑑三が札幌農学校に入学した十六歳の時から記述は始まっている。この本に出会った私も、ちょうど同じ年頃の十五歳だった。キリスト教に入信した鑑三は本当のキリスト教を求めて、アメリカにまで出かけて行く。真っ直ぐな、そして不器用な鑑三は、そうであればこそ、紆余曲折を経て、とうとう本当の日本人として、本当のキリスト者として生きるべく、日本に帰ってくることになる。帰国する鑑三が校長として赴任する予定の一基督教カレッジとは、新潟の北越学館のことである。敬和とは不思議に、ここで縁がつながる。鑑三の著作は岩波文庫にいくつも入っているが、併せて『後世への最大遺物』も読んでほしい。この世に生まれて来たからには、世界に対して何かを残して行きたいものである。私たちの生涯のミッションは何であるのか。使命を見つけるためにはどうしたら良いのか。お金、事業、教育、そして勇ましく高尚なる生涯、と鑑三は論を進めて行く。数多の青年たちの心を奮い立たせた稀有の一冊である。生きた時代が違うので、私は内村鑑三に直接会うことはできなかった。かえすがえすも残念である。学校を終えた私はしばらくの期間、製鉄所で働いた。生きがいを探し求めて思案していた頃、本を通して出会ったのがドイツ人牧師であり、神学者であったボンヘッファーだった。たくさんの翻訳や本があるが、ヒットラー暗殺計画に加わって逮捕された、獄中からの『ボンヘッファー獄中書簡集』はぜひ読んでほしい。私自身、今でも読み返し、大きな刺激を受けている。ナチスが凶暴な力を奮った時代にあって、同時代人として、キリストとして、一人の責任的な人間として誠実に生き、そして、戦争終結の直前に処刑されたボンヘッファーにぜひ出会ってほしいと思う。『アウグスティヌス講話』(講談社学術文庫)を書いた山田晶先生には、一度だけお会いしたことがある。実際に会って話を聞くことは、本を読むこと以上に私たちにインパクトを与えてくれる。活字の中から、声と表情が立ちあがってくるような気がする。静岡で行われた山田先生の二日間の集中講義の時のことである。先生は名古屋から静岡に向かうつもりで、東京直通の新幹線に乗車してしまった。結局三時間遅れで始まった講義の冒頭、急いで会場に入って来た山田先生が私に耳打ちをされた。「礼拝堂で祈りたいので、しばらく待ってください。」生涯の最後を沈黙で過ごしたトマスの研究者でもあった山田先生は御自身、そのような方だった。一言の文章の背後には、無限の沈黙がなければならない。真理への畏れを身を持ってあらわした方だった。森有正『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫)も、私が青年時代に出会った大切な一冊である。ものと言葉を一つに結び合わせるところに、一人の人間が生きて在ることの意味と使命を見る、という森有正の思索は、非力な私にも生きることの意味と可能性を与えてくれるものだった。会社を辞めて入学した神学校の隣が、フランスと日本を行き来していた森有正が日本にいる時の住まう大学だった。キャンパスを猫背で歩く姿が、今でも私の前を歩いているような気がする。「ボンへッファーの美しい詩」http://blogs.yahoo.co.jp/at_kitami/46279094.html1. Von guten Mächten treu und still umgeben, 主の良き力に誠実に静かに包まれてbehütet und getröstet wunderbar, 守られて、素晴らしく慰められてso will ich diese Tage mit euch leben, 私はこの日々をあなた方と生きよう。und mit euch gehen in ein neues Jahr. そして新しい年を迎えよう Von guten Mächten wunderbar geborgen, 主の良き力によく守られて、何が起きようとerwarten wir getrost, was kommen mag. 主の慰めを待ち望もう。Gott ist mit uns am Abend und am Morgen 主は夜も朝も共にいて下さる。und ganz gewiss an jedem neuen Tag. そして間違いなく新しい日々も。 2. Noch will das Alte unsere Herzen quälen, 古い問題が我々の心を苦しめようともnoch drückt uns böser Tage schwere Last. 悪意に満ちた日々の重荷に悩まされてもAch, Herr, gib unsern aufgescheuchten Seelen ああ、主よ、我々の追い立てられる魂にdas Heil, für das du uns bereitet hast. 貴方が備えてられた救いを与えて下さい 3. Und reichst du uns den schweren Kelch, 貴方が苦渋に満ちた盃を与えられようともden bittern des Leids, gefüllt bis an den しかも満ち満ちた盃であってもhöchsten Rand,so nehmen wir ihn dankbar 私たちはそれを手を震わすことなく、感謝をもってohne Zittern,aus deiner guten und geliebten 貴方の良き愛する手から受け取るでしょうHand. 4. Doch willst du uns noch einmal Freude しかしながら貴方がもう一度この世でのschenken an dieser Welt und ihrer Sonne Glanz, 喜びを与えて下さり太陽の輝きを与えてdann wolln wir des Vergangenen gedenken, 下さるのなら、私たちは過ぎ去った日々und dann gehört dir unser Leben ganz. を思い起こします。それで私達の命は すべてあなたのものです。 5. Lass warm und still die Kerzen heute flammen, 貴方がこの暗き世にもたらして下さったdie du in unsere Dunkelheit gebracht. 蝋燭を輝かせてください。Führ, wenn es sein kann, wieder uns zusammen. できる事なら私達を御前に集めて下さいWir wissen es, dein Licht scheint in der Nacht. 貴方の光が夜でも輝く事をよく知っています。 6. Wenn sich die Stille nun tief um uns breitet, 静寂が我々の周りに広がっていてもso lass uns hören jenen vollen Klang 私達には見えないものの我々の周りをder Welt, die unsichtbar sich um uns weitet, 取り囲む世界中の響きを聞かせて下さいall deiner Kinder hohen Lobgesang. 貴方の子供達の高らかな賛美を 心からの感謝をもって アーメンよき力に守られ追悼・山田晶先生水 田 英 実山田晶先生が不帰の客となられた。前夜に鎌倉市大船の病院にお見舞いした際には,眠っておられたから何もお話しすることができなかった。明日また来ますとご挨拶をして退出し,翌朝,再訪した直後にご容態が急変し,そのまま逝ってしまわれた。狼狽しながら先生の手を握りしめて,何度も何度も呼びかけたけれども,お返事が返ってくることはもうなかった。昨年(2008 年)2 月 29 日の朝である。私が初めて山田晶先生に接する機会を得たのは,二回生の時に受講した西洋中世哲学史の時間である。山田先生は前年(1965 年)の秋に京都大学文学部に戻って来ておられたけれども,時間割に一回生が受講できる科目はなかった。受講可能な最初の科目がこの中世哲学史の講義だった。研究講義や演習を受講するためには,専門課程に進むのを待たなければならなかった。研究室には上級生が既に何人もいたけれども,三回生から指導学生になったひとはまだいなかったと思う。演習の一つは,トマスの『神学大全』を冒頭から,いつ読み終わるか分からないと仰りながら,毎週少しずつ,一項進むか進まないかというペースで読んでゆくものであった。10 年後には第一部第十六問「神の真理について」まで来ていた。中世哲学会の事務局が京大にあった頃である。福井大学に赴任が決まった私は,この頃に京都を離れなければならなくなり,聴講を続けることが難しくなったけれども,先生はその後も,ご在職中ずっと,受講生がすっかり入れ替わってしまってもまったくお構いなしで,この演習を続けておられた。ご定年(1985 年)後,山田先生は名古屋の南山大学に移られた。そこでもトマスの演習を続けていると,楽しそうに話しておられたことを覚えている。中世哲学会委員長を務めておられたのはこの前後の 8 年間である。毎年秋の中世哲学会の会場や宿舎で,他の学会員や卒業生とお話しをなさる合間を縫うようにして,ご研究について聞かせていただいた。時々,近況報告をするために伺うことはあったけれども,転任して広島に住むようになった私には,毎週の聴講はいよいよ困難であった。ところで,『神学大全』を最初から読む演習は,私が受講し始めたときは,すでに二年目に入っていた。だから第一問はもう済んでいた。それで思い立って自分で最初から読み,勝手にレポートをまとめて山田先生のところに持って行ったのである。ところが山田研究室のドアに掛けられた行先表示は,いつも「多忙」になっていた。あとは「帰宅」しか見たことがない。「多忙」の表示に気圧されそうになりながらも,そのときは「どうしても」という気持ちだったから,表示を無視してノックした。随分思い切ったことをしたと今になって思う。お忙しいのではないですか,と恐る恐るお尋ねすると,どうしてもというひと以外は退散してもらうためだから気にしなくてよいとのお返事だった。それから一度も気にしたことがない。いつでもずかずかと,当時の「新館」四階西南角にあった研究室を訪ねていった。南山でも遠慮はしなかった。どうしてもお話をきかせていただきたかったし,また聞いていただきたかったからである。学生の特権を行使したまでとはいえ,先生には随分迷惑な話である。そのときの印象として,うるさがられた覚えは全くない。しかし特にほめられたわけでもなかった。はっきり記憶していることが一つある。それは第一問第一項にいう「人間の救済」の意味に注意するようにということであった。朱の入ったレポートを返していただいたときのことである。意味は分かるつもりでいた。「神のうちに存立する人間の全救済」は,「神の真理についての認識にこそかかっている」けれども,「もしこの真理が理性によって追求される場合には」,「人間理性によって追求されうる」にしても,啓示によらなければ困難を極めるというのであるから,見方を変えれば,特別な啓示によらずにその認識を得ることはできる。困難であっても不可能ではない。そのときのレポートにそう書いたと思う。「中世哲学」の可能性は,啓示を受けたことによって人間理性が確実に探求しうる領域が拡大したところに開かれていると強く感じていたからである。しかしこれは,「人間の救済」のために啓示が必要な理由の第一ではない。第一は「そもそも人間は神を目的としてこれに秩序づけられているが,この目的たるや,理性の把握を超えている。しかるに自分の意図と行為とを目的に対して秩序づけるべき人間たちには,まずもってその目的が知られていなければならない」から,「人間理性を超える或ることがらが神の啓示によって知らされることは,人間にとってその救済のために必要だった」ことにある(山田晶訳 トマス・アクィナス『神学大全』世界の名著 続 5,1975,p.80)。この種の「知」の意味が分かるかと問うてくださったのであったと思う。信仰によって知られること,つまり,「人間にとってその救済のために必要だった」ことが,神の啓示によって知らされるというテーマは,そこに引用された「イザヤ書」(64:4)からも読み取れる。「神よ,あなたを愛する人々のためにあなたが備え給うたことがらを,人間の眼はあなたによらずには見ることができない。」神が先に人間を,理性の把握を超えた目的に向けて秩序づけた。この関係を啓示によって知るというテーマは,アウグスティヌス『告白』の冒頭にも出てくる。「あなたは私たちを,ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は,あなたのうちに憩うまで,安らぎを得ることができないのです」,「私の信仰があなたを呼びもとめます。信仰を与えてくださったのはあなたです」(第一巻第一章,山田晶訳 世界の名著 14,1968,p.59)。先生は『告白』の演習も,毎年,学期中毎週一節のペースで進めておられた。アウグスティヌスとトマス・アクィナスの思想上の連続性を強調なさっていたことは言うまでもない。というより二人の先達が織りなす思想の系譜の上に,ご自身の立脚点を置いておられた。山田晶先生は何よりも,信仰のひとであったと思う。その学風の根幹においても,日常の全般においても。だから「人間の救済」も,文献解釈の範囲を超えて,現実のことがらとして受けとめておられたと思う。何かの折に話題が,フランシスコ・ザビエルの日本での宣教に及んだことがある。ザビエルの説教を聴いたひとたちの中に,キリスト教信仰を表明せずに死んだ父や母に救いはないと聞かされて,深く悲しみ,泣くのをやめなかった人たちが多数いたという。「教会の外に救いなし」との考えがザビエルにあったのであろう。もしもう少し詳しくトマスを研究していたら,必ずしもそのような排他的な態度はとらなかったのではないかということであった。ラーナーの「無名のキリスト者」にも賛成しておられた。不帰の客となられたいま,もはや先生から直接お返事が返ってくることはない。しかし,もう一度この話題を取り上げていただきたかったと思う。文化的な装いの多様性を考慮すれば,どの宗教も他宗教から多くのことを学ぶことができるのは事実なのであるから,多元的な宗教理解を試みる余地があるのではないかというようなことを,まだお元気な頃に,南山大学の研究室でお話した記憶もある。あらためて山田先生のお考えをお尋ねしたいことは,ほかにも沢山ある。しかし幽明界を異にすることになってしまった今では,それももはや適わない。山田晶先生のご冥福をお祈りするばかりである。『ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集 内村鑑三神と共なる闘い』p.24-259 北越学館における内村鑑三の授業 ベルへの手紙に「私は一週五回エレミア記を講じていますが、生徒らは異常な関心をもって聴講し、この涙の預言者において崇高な愛国者を発見しつつあります」とある。『日録』資料に「新潟時代の内村鑑三先生を憶ふ」という南山葉椰子生の回想録が載り、生徒からみた内村鑑三の講義振りが伺われる。「愛国時代国民主義をプリンシプルとして、鋭意青年教育に猛進し、社会教育に渾身の力を捧げんと獅子吼したのは、数日前永眠された吾らの旧師内村鑑三先生が、米国より帰国直後、最初の事業として、自ら進んで新潟の地を踏み、高遠なる理想、卓越せる識見、豊富なる新知識を以て、県下唯一の高等教育機関たる北越学館の教頭となりて我が北越の大地に奮闘された当時であった。(略) 先生が令弟達三郎先生と共に北越学館の教壇における教授方法は実に、当時一新紀元を画し、その巧妙徹底せる、驚異的効果を奏されたのであった。先生に教えられたる学課は、四十年後の今日、鈍感なるわれらのなお明瞭に暗誦しつつあるほどまでに、趣味津々として活躍しておったのを覚ゆる。・・・毎朝課業の前に、講堂における訓話及び講演は、今にして想えば、得やすからぬ堂々たる名演説であった。旧約聖書中の著名なる愛国者の伝記について講ぜられし際の如きは、真に先生の熱血ほとばしる感あらしめた。『わが頭をして涙の泉たらしめよ、我れよく国民のために泣かん』との語のところでは、先生感極まって声涙共に下り、『諸君はいかに感ずるか、日本国民たる諸君は、諸外国に軽侮されつつある哀れなる現状を見てこの国難をいかに打開すべきか』と、切歯してわれらを刺激発奮された。かくして、先生は、愛国国民主義の教育を施すことに努力された。教育の要諦は詰め込むのではなく、引き出すので、すなわち、啓発するのである。エヂュケーションなる原語は引き出すという意味で、内々あるものを引っ張り出すのであると、常に先生は言われていた。」