報徳記巻の三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ
【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ 天保七年(一八三六)大飢饉となった。諸国の民は飢渇に苦しんで、草の根を食べ、木の皮を食べたが、食物も既につきて四方に離散した。どこへ行っても食物を得る方法はなく、道路に叫んで悲しんでも、人もまたこのようであったから、情け深い者もこれを救うことができなかった。ついに道に飢えて死んだ死体が累々と重なるに至った。野州烏山領内の民もまた飢渇に苦しみ、多くの人が立ち上がり、城下市中の金持ちの家を打ち壊し、騒動することがおびただしかった。城中の群臣はこれを聞き、もし彼等が城内に乱入することがないとも計りがたい。そうであれば是非に及ばない、大砲でこれを打ち払うしかないと、大砲を備えてこれを待った。代官や郡奉行によって民を諭し、その動揺を鎮静させた。これより前、菅谷八郎右衛門は二宮先生に至って救荒の道を請い、実情を小田原侯に申し上げ、先生も烏山侯より依頼の趣きをお耳に入れた。小田原侯は深くこれを憐れんで「烏山は親族である。これを救う道が有れば、余に代って慈しみ育てよ」と命ぜられた。ここにおいて先生は総額二千余両の米穀を烏山に送って、十余里の間、運輸の米穀を運ぶ列が次々と絶えなかった。人々は目を見張って驚いた。菩提寺の天性寺の境内に十一棟の小屋を建築し、領中の飢えた民を集めて、粥(かゆ)を炊(た)いてこれを養った。その処置や規則は皆、先生の深慮に出ていたから不正の憂いや均(ひと)しくない憂いがなく、昼となく夜となく火の元を厳しくし、小屋の汚れやけがれを去り、伝染病の心配を防ぎ、厚くこれを養った。円応和尚(おしょう)はかつて先生に会見し、ついにその志願をとげたことから大変喜んで、飢えた民が安全か危険を調べ、昼となく夜となく全力で慈しみ憐れんだ。これにより、必ずや飢え死んだであろう数千人の飢えた民が、一人もあやまって命を落とすこともなかった。先生の仁術によらなければ、どうしてこの大飢饉を無事にしのぐことができたであろう、上下これを感嘆した。ここにおいて領内の復興の道を依頼しようと大久保侯の直書と家老以下の小役人に至るまで連印した依頼書で再び先生に願い出た。先生は言われた。「下々(しもじも)の民の露命(ろめい)が今日の夕刻か、明日の朝かと差し迫り、私が救わなければ、数千人の民が罪もなく死に陥ったであろう。これを見るに忍びないので、君臣の懇切な願いにまかせこれを救助した。国家を再興する道はどうして私が知る所であろうか。」と固辞して受けなかった。烏山の君臣は再三願って止まなかった。先生は言われた。「そもそも国を興す事は誠に大事業である。天命に安んじて、衰貧の時に随い、天理自然の分度を守り、その艱難に素(そ)して艱難に行い、下々の民が安らかに暮せるようになったのを見てその後、共に安んじ、民が一人でも困苦を免れない時は、君主以下一藩の皆が安らかな思いをなさず、民の憂いに先立って憂い、民の楽しみに後れて楽しみ、民を恵む事は、子を育てるようでなければ、どうして衰国を興すことができよう。おのおの方が求める所はそうではない。君の必要な費用が足らず、一藩の俸禄が十分の三ですら米穀を受ける事ができず、この不足を補おうとして他から借金し、年々君の借財は増し、利息は倍増し、幾万両となり、どうにもできなくなって、領民から献金させてこれを補おうとし、なお足りない。今年に来年の租税を命じて出させる。下々の艱難はすでに極まって、ついに凶歳となって飢え死に瀕(ひん)したのではないか。このようにして歳月を送るならば、国が亡びなければ止まない。天地の間の大小、それぞれその分限がある。その分に応じて、その必要な費用を制すれば何の不足があろうか。もし分限を破って、いたずらに財宝を費し、不足だけを憂える時は百万石を得てもどうして足る事があろう。五石や十石の者でさえ一家を保って、ながくこの世に存立している。それなのに烏山三万石があって費用が足りないというのはどうしてか。そもそも三万石とは何の名か。米穀三万石を産出するという土地のことではないか。三万石の米穀の中にいて米金がないことを憂い、下々の民が飢渇を憂える時は、天下で足るものがあろうか。譬えば米の飯の中に坐って飢えを嘆き叫ぶようなものだ。どうして坐している所がすべて食物であることを知らないのか。今、三万石の中にあって、米金がないことを憂える。どうしてこれと異なろう。ただ支出に節度がなく、国の分度を知らないからである。その原因を明らかにして、現在の天命に安んじ、国家が再び盛んな時に至るまでは、この艱難を常とする覚悟がなければ、国の衰廃を挙げることはできない。その本が立たないで、いたずらに私にその不足を補わせようとするならば、私がどうしてこれに応ずることができよう。なぜならば旧来の負債を私がこれを踏み倒すことはできない。他領の貢税を取って、烏山の不足を補うことはできない。今おのおのが求める所は、一つとして私がこれをよくすることができない。私の道をもって復興しようとするならば、別に道はない。この地の廃亡を挙げた道を移すだけである。この道とは他でもない、ただ烏山は烏山の分を守り、艱難の地に安んじ、国民を恵んで、その廃亡を興すだけである。おのおの欲するところが異なるならば、たとえ私の方法を授けたとしても、どうしてその成功を遂げることができよう。止めたほうがよい。」と言われた。 菅谷を始め藩士達は、的確で明らかな教えに感じ入って、いよいよ上下心を同じくして協力してこの道を行います。どうか先生指揮してくださいと請うた。先生は止むを得ず、烏山藩の分度の基礎を定めようと言われた。「そうであればまず天分の基本を明らかにしなければならない。論語にいう、ふるきをたずねて新しきを知ると。烏山領内の租税の豊作及び凶作十年を調べ、これを平均し、その天命のあるところを考察し、これからの分度を定めなければならない。おのおの古い帳簿を持って来てすぐに調査しなさい。私がその至当を示そう。」と言われた。家老以下大変に喜んで、すぐに烏山に帰って、再び桜町に来た。先生は烏山藩の役人数十人を陣屋に居住させて、飲食から衣服に至るまで心を尽して給し、数カ月で豊凶十年の調査が成った。そして衰時の天命のあるところ、自然の分度を確立して言われた。「この後、君臣共にこれを守るならば、必ず廃衰が再復することは疑いない。およそ世の盛衰・存亡・興廃は一つとして、この分度から生じないものはない。早く烏山に帰り群臣と共にこれを決しなさい。」と教えられた。家老以下烏山に来てこれを評議し、数日で一決した。ここにおいて再三先生に復興の道を請うた。先生は再び米や資金を出して、烏山領村の廃地を復興させた。下々の民は飢渇を免れて、大変に感激して開墾に尽力し、一、二年で旧来の廃地を開く事二百二十四町、産出した穀物は二千俵に及んだ。先生は言われた。「烏山藩に何万の廃田、幾万の借金があっても、分度外の生産の穀物が、年々二千俵を得るならば旧来に復する道は難しくはない。ただ上下ともその分度を守るかどうかによるのだ。」と、人々は、先生の仁心大智を驚歎しない者はなかった。【補注報徳記】上巻一四一ページ 烏山侯は当時江戸にあった。菅谷は江戸に出る途中、桜町に立ち寄り、天保七年(一八三六)九月二三日、円応の案内で先生に始めて面会した。菅谷は先生の明教に驚嘆し、先生の指導によれば必ず目的を達成するとの自信を得た。江戸で烏山侯に説明し、重役の御前会議を経て、仕法依頼を決定した。烏山藩から小田原藩に、先生を借り受けたい旨、申し入れたところ、貸すことはできないが、あいたいで依頼することは差支えないと回答を得た。菅谷は直書を携えて江戸を出発し、一一月二日桜町に立ち寄り、正式に仕法を依頼した。先生は藩政の天分調査、分度確立、荒地開発及び借財返済が根本的方策であることを述べ、それを実行する決意があれば、救急の方策を講じようと承諾され、救助米を提供することを約束された。救助米は一一月二六日の白米五〇俵を始め続々と送られた。