日本女子大学と伊勢原市立図書館が新たに「技師鳥居信平著述集」を蔵書としていただいた。
神奈川県で伊勢原市立図書館が蔵書としていただいた。大和市1件小田原市1件伊勢原市1件1 市立図書館 一般 一般図書室 (289.1 シ) 貸出できます 0113711931◎国立国会図書館連携文書から前島密の自伝「鴻爪(こうそうこん)」の中泉代官の部分をコピーしてきた。前島密が中泉代官であったのはわずか8か月であったが、おそらく青山士の祖父青山宙平に与えた近代の精神と博愛の具現者としての前島密の影響はただならぬものがあるように思う。蓑かぶり一揆の首謀者の一人鈴木孫三郎とともに多大の関心がある。中泉代官では蓑かぶり一揆が起きている。明治3年(1870)のことである。慶応3年(1867)以来、連年の米の不作で明治2年(1869)米価が高騰した。農民たちは各地で集会し、村の名主たちは年貢減免を願い出、1867年11,12月には豊田郡・長上郡・麁玉郡・引佐等の各地で騒動となった。浜松・掛川両郡政務所管内では年貢の一割引を実施したが、中泉郡政務所は農民の請願を受け入れず、斬首刑をちらつかせて弾圧した。同じ静岡藩でありながら公平を欠くとして豊田郡70余人の名主全員で静岡藩庁に直訴することを決めた。 名主たちの決定を聞いて農民たちは同じく蓑笠に身を包み、明治3年(1870)正月夜明けとともに三ヶ野坂に集まり、その数三千余名に達した。彼らは東海道を東に進み、掛川宿に入ったところで、掛川郡政務所の多田銃三郎の率いる騎馬隊に阻止された。一身に責を負う覚悟を決めた鈴木孫三郎は、多田に事情を説明し、さらに折衝の上、多田が直接中泉役所へいって話すとの約束を得たので農民たちは帰村した。孫三郎手記に「ここぞ御恩おほす時と思って一生懸命、首をとるとの内意渡しも恐れず、46か村小前一同助からねば万世の違、定久になりますと心得まして、ここぞ御恩ほする時と定めて命を終わりても心を定めて掛川の御役人様へ申し上げた」とある。前島密は、明治2年1月に中泉奉行に任じられた。身のかぶり一揆のおこるちょうど一年前である。12月に明治政府へ出仕した。この一揆が起こるまでの経過にどのようなかかわりがあったかは不明である。前島密は、困窮する人民のために磐田の寺院を説得して救院(普済院)を創設させた。江戸から移り住む旧幕臣とその家族のために長屋を建設し、織物や養蚕など生計の道を模索し、さらには学校を設立するなど、「極貧救育之道」を実現するため民政に尽力した。あるいは旧幕臣の生計の道をたてるのに精いっぱいで年貢の減額に応じられなかったのかもしれない。鈴木孫三郎は「首をとるとの内意渡しも恐れず、46か村小前一同助からねば万世の違になりますと心得て、ここぞ御恩を報ずる時と定めて命を終わりても」と一揆の衆を代表して掛川郡政務所の多田銃三郎に訴えた。結局9分引きで決着するが首謀者の庄屋たちは4年の禁固刑となり、うち鮫島万平(下岡田)は獄死した。鈴木孫三郎(上岡田)は大病をわずらい、郷宿預けとなり、青山宙平の斡旋で四か月で全癒ののち清水で服役した。青山宙平はおそらく磐田の百姓のために命をとられてもと強訴した義人鈴木孫三郎を4か月介抱するなかで、強いインパクトを受けたのではなかろうか。前島の近代精神と義人孫三郎の思いがその後、青山宙平を生涯公共の利益のために尽力せしめ、それが孫の市川紀元二、青山士に受け継がれた、そういう気がしてならないのである。