久留里城攻防戦(上総国)
房総半島のほぼ中央部に位置する久留里城は、戦国時代には里見義堯が本拠とした城であり、まさに房総支配の心臓部でした。その房総半島進出を狙って、里見義堯と敵対関係にあったのが小田原城の北条氏康です。北条氏康は有名な河越夜戦に勝利して武蔵を手中に収めると、いよいよ里見義堯の房総へと進出してきました。そして1554年、勇将北条綱成を総大将とした北条軍15,000の大軍が、東京湾を渡って次々と上総沿岸部に上陸、里見義堯の久留里城目指して進軍して来ました。当時向かうところ敵なしの北条軍の侵攻に対し、里見義堯は臆することなく徹底抗戦を決定しました。この時に里見義堯がとった戦法は、久留里城での籠城戦です。房総半島は急峻な山や谷が入り組んだ複雑な地形をしています。その房総半島の中央部にある久留里城に籠城することで、北条軍の兵站線を消耗させることが目的でした。里見義堯は沿岸部での抗戦ばかりではなく、久留里城から出て戦うことも一切禁止し、徹底した籠城戦を行いました。一方の北条綱成は、久留里城の前面を流れる小櫃川の対岸にある「向郷」に帯陣し、15,000の大軍で久留里城を包囲しており、小櫃川を挟んで北条軍と里見軍の我慢比べとなっていきました。久留里城から見た「向郷」方面。北条軍の大軍は小櫃川を挟んだ写真の右手奥に帯陣していました。その北条軍が帯陣した「向郷」に行ってみました。北条軍と里見軍が対峙した小櫃川蛇行する小櫃川を渡河して攻め込むことは、なかなか容易ではなさそうです。向郷付近向こう側に見える山の上に久留里城があります。結局1ヶ月に及ぶ攻防戦は勝敗がつかず、北条綱成は撤退を余儀なくされました。この年北条氏康は、再び久留里城を攻めるべく、北条綱成率いる大軍を上総に送り込みました。この時は小櫃川を挟んで局地的な戦闘がありましたが、やはり勝敗を決するまでには至らずに北条軍は撤退しています。里見義堯も追撃戦を展開しますが、大きな戦果はありませんでした。2度の久留里城攻防戦で、いずれも撤退を余儀なくされた北条氏康ですが、翌1555年にも久留里城に攻め込んで来ました。「今度こそ里見を屈服させる」と並々ならぬ意気込みで、再び総大将北条綱成率いる20,000の大軍で久留里城を包囲しました。4ヵ月に及ぶこの攻防戦で、北条綱成は里見方の須田将監を寝返らせることに成功、久留里城の内と外から城を攻める作戦に出ました。しかしながらこの内応の動きを里見義堯が事前に察知、結局この時も勝敗がつかずに北条軍は撤退しています。北条綱成との攻防戦を3回も凌いだ里見義堯ですが、一番の要因は房総特有の地形にあると思います。もしも房総半島が平坦な土地であったなら、房総は容易に北条氏康の手に収まっていたことでしょう。そういう意味では、北条氏康の最大の敵は房総の山々と久留里城だったのかも知れません。また里見義堯が北条氏康と互角に戦えたのも、房総の山々という最大の味方があったからではないでしょうか。関連記事久留里城→こちら