熊本城(肥後国)~その2
最近のゆるキャラブームもあってか、熊本城の本丸にもマスコットキャラクターがいます。ひごまるくん。。。熊本城本丸に建つ天守は、西南戦争の時に原因不明の火災で焼失し、昭和35年に外観復元されています。下見板張りの大天守と小天守本丸には大小さまざまな櫓が建っていますが、ここでも外側と内側では異なって見えるのが興味深いところです。宇土櫓(現存、内側から見たところ)小西行長の宇土城天守を移築したと伝えられ、「宇土櫓」の由来だとされていました。しかしながら解体修理の際に調査したところ、加藤清正によって熊本城内に創建されたものだと判明したそうです。飯田丸五階櫓(外観復元、内側から見たところ)加藤清正の家臣であった飯田覚兵衛に由来して、曲輪には「飯田丸」の名前が付けられています。北東側の鬼門には、不開門(あかずのもん)が残っていました。門の中では唯一現存するもので、櫓門形式となっています。熊本城では復元整備が進めらており、近い将来には熊本城の城郭が完全復活する予定です。その一環として、昨年3月には本丸御殿の復元が完了しました。本丸御殿。本丸御殿は二つの石垣に支えられて建っており、本丸御殿の地下には「闇り通路」と呼ばれる通路がありました。当時は天守へ行くには、この通路を通る必要があったそうです。「闇り通路」。照明がなかった当時は、どうやって通ったのでしょうか。本丸御殿は内部も復元されており、中も見ることができました。「梅之間」と呼ばれる大広間大広間の奥には、「昭君之間」と呼ばれる、豪華絢爛な部屋があります。最も格式の高い部屋で、藩主の対面の場所だったそうです。実はこの「昭君之間」は、一説には加藤清正が豊臣秀頼を迎え入れるために造ったとも言われています。壁や天井の描かれた絵画は、悲劇のヒロイン「王昭君」の物語を描いたもので、秀頼好みの絵画だとも言われています。武骨一色な熊本城にあって、ここだけは異彩を放っています。加藤清正の人物像からしても、この部屋の装飾には違和感を覚えました。秀頼のために造ったとする説も、決して間違いではないかも知れません。昭君之間の装飾がきらびやかであればあるほど、なんだか悲しみが募ってきます。豊臣家再興という加藤清正の念願はついに叶うことなく、本当の主君をここに迎え入れることはありませんでした。本丸御殿を出て天守を振り返った時、太閤時代の大阪城とオーバーラップさせてしまったのは、想像のしすぎでしょうか。それにしても加藤清正の熊本城の縄張りを見ると、これが難航不落の城だとよくわかります。近世に造られた城は、実戦をくぐり抜けることなく明治を迎えるものが大半ですが、奇しくも熊本城だけは実戦の舞台に躍り出てきました。1877年の西南戦争の時は、13,000人の薩摩軍が熊本城を包囲し、3,500人の政府軍との間で激しい籠城戦が展開されました。この時薩摩軍は、清正流の石垣に阻まれて、城内に入ることが出来ませんでした。熊本城を落とせなかった薩摩軍の西郷隆盛は、「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と言ったと伝えられています。築城の名手加藤清正の名を上げ、熊本城の堅固さを証明したのは、明治に入った最後の内戦でのことでした。戦国時代の九州は、菊池氏・大友氏・島津氏・龍造寺氏による群雄割拠の時代でした。当時の熊本城は隈本城と呼ばれ、規模も小さな中世の城だったようです。1550年には大友氏の配下となりますが、1587年に豊臣秀吉が九州を平定すると、佐々成政が城主となりました。佐々成政は、検地の強行などによって領民の一揆を招き、その咎で切腹に処せられています。熊本城西側の堀は「備前堀」と名付けられていますが、これは佐々成政の遺族である佐々備前守が住んでいたことに由来しています。備前堀佐々成政の後、肥後は北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に分け与えられることになりました。このとき加藤清正が居城としたのも隈本城でした。関ヶ原の戦いで小西行長が滅びると、加藤清正は肥後54万石を領有することとなり、1601年から熊本城の築城を開始しました。そして1607年に熊本城は完成し、地名を隈本から熊本へと改名しています。しかしながら熊本城完成からわずか4年後に、加藤清正は50歳で病死してしまいました(徳川方の毒殺か?)加藤清正の後は三男加藤忠広が家督を継ぎますが、謀反の連判状を作ったとの咎で改易処分となってしまいました(幕府の陰謀か?)その後は細川忠利が肥後を与えられて、熊本城主となっています。ちなみに細川忠利の父は細川忠興、母は明智光秀の娘である細川ガラシャでした。さらには細川忠利の末裔には、細川元首相がいます。細川忠利の時には、宮本武蔵が客分として迎えられ、熊本城内に住んでいました。1877年の西南戦争の時、熊本城には明治政府の鎮守府が置かれ、薩摩軍を相手に籠城戦が繰り広げられています薩摩軍は13,000人の兵力で鹿児島を出て北上し、3,500人の政府軍が守る熊本城を攻囲しました。この時の熊本鎮台府の司令長官が谷干城です。熊本城外に建つ、谷干城像。薩摩軍と政府軍の間で、52日間にも及ぶ激しい攻防戦が行われましたが、熊本城は落城することなく、薩摩軍も熊本城の包囲を解いて、田原坂へと移動して行きました。そんな堅固な熊本城ですが、薩摩軍の総攻撃が行われる直前に、原因不明の出火によって天守を焼失してしまいました。実は出火原因として、政府軍が自ら火を付けたとする説が有力です。時代遅れの天守を焼くことで、兵に籠城の覚悟をさせるため、谷干城が焼失を命じたそうです。そして実際に火を付けたのは、後に日露戦争で名を馳せた児玉源太郎でした。いくら児玉源太郎でも、これは許しがたい暴挙です。(児玉源太郎らしい気もしますが・・・)(財)日本城郭協会「日本100名城」