厳島古戦場(広島・廿日市市)
「厳島の戦い」は「日本三大奇襲戦」の1つに数えられ、大劣勢から逆転勝利した戦いとして有名です。ちなみに「日本三大奇襲戦」とは、1.桶狭間の戦い…織田信長2,000VS今川義元25,0002.河越夜戦・・・北条氏康8,000VS古河公方と山内・扇谷上杉連合軍80,0003.厳島の戦い・・・毛利元就3,500VS陶晴賢27,000いずれも10倍の敵を前にした大劣勢からの勝利です。織田信長・北条氏康・毛利元就それぞれの作戦が功を奏した戦いでもあり、これらの戦い以降、織田信長は天下を掌握し、北条氏康は関東の最大勢力に、毛利元就は西日本の最大勢力へとのし上がって行きました。さらにこれらの戦いで共通しているのは、周到に練り上げられた作戦と数少ないチャンスを逃さなかった勇気と決断力だと思います。毛利元就が陶晴賢に勝利した厳島の戦いは、厳島神社のある宮島が戦いの舞台でした。当時の中国地方は大内義隆と尼子晴久の二大勢力の下にあり、安芸(広島)でも弱小武将たちが、大内氏に従ったり尼子氏に従ったりしていました。毛利元就もそんな弱小勢力の一人で、初めは尼子晴久についていたのですが、途中で寝返って大内義隆に従っていました。その大内義隆は、1551年に家臣である陶晴賢(すえはるたか)の突然の謀反により滅亡しました。毛利元就は逆臣陶晴賢との対決姿勢を明らかにしますが、所詮は多勢に無勢であり、到底勝ち目はありません。そこで毛利元就は不利な平地での戦いを避け、狭い厳島(宮島)を戦いの場に選びました。厳島合戦図毛利元就は厳島神社の近くにオトリ目的の宮尾城を築城し、陶晴賢の大軍を厳島へと誘き出すことに成功しました。陶晴賢は27,000の大軍で厳島に上陸し、宮尾城の東側「塔ノ岡」に本陣を置いて、宮尾城を包囲しました。陶晴賢が本陣を置いた「塔ノ岡」(宮尾城より)。五重の塔は厳島神社のものです。陶晴賢が宮尾城を包囲するなら、ここに本陣を置くしかなさそうです。陶晴賢が塔ノ岡に布陣したと知った毛利元就は、水軍を率いて本土を出発しました。風雨が激しくて渡海は困難を極めましたが、夜陰に紛れて塔ノ岡や宮尾城の反対側にある「包ヶ浦」に上陸しました。毛利軍の上陸地である包ヶ浦包ヶ浦にある「毛利元就上陸之跡」の碑全軍が上陸すると、毛利元就は乗ってきた船を引き上げさせました。本土に帰るためには陶晴賢軍を破って船を奪うしかなく、まさに不退転の決意で臨んだ背水の陣です。そして毛利軍は夜陰に紛れて行軍し、陶晴賢の本陣「塔ノ岡」を見下ろす「博打尾(ばくちお)」の峰に集結しました。毛利軍が集結した「博打尾」方面(宮尾城より)。後ろの山がそうだと思いますが、塔ノ岡の背後を衝くならここがベストでしょうか。この頃毛利軍では、別働隊が宮島へと渡海していました。「毛利両川」の小早川隆景率いる水軍ですが、陶晴賢軍に対し「九州からの援軍だ」と偽って、正面から堂々と渡海して厳島神社への上陸に成功しています。小早川水軍が渡海ルート(宮尾城より)そして1555年10月1日、夜明けと共に毛利元就本隊は博打尾を一気に駆け下り、塔ノ岡にある陶晴賢の本陣へ襲いかかりました。山を駆け下ることで、兵力不足を挽回することも毛利元就の作戦の1つです。さらに敵前上陸を敢行した小早川隆景の別働隊も、毛利元就に呼応して攻撃を開始しました。まさか嵐の中を渡海して来ると思っていなかった陶晴賢軍は、来たるべき宮尾城総攻撃に備えてぐっすりと眠っている最中でした。完全に不意を衝かれた陶晴賢軍は大混乱となり、ろくな戦いもしないままに敗走し始めました。陶晴賢軍は島内での逃げ場を失って海岸へと逃れますが、そこに待ち構えていたのは、毛利元就の援軍として到着した村上武吉・来島通康率いる村上水軍です。すでに村上水軍が海上を封鎖しており、逃れる陶晴賢軍にさらに追い討ちをかけていきました。逃げる場所も帰る船も失った陶晴賢は、最期を悟って厳島の「高安ヶ原」で自刃しました。その陶晴賢の辞世の句が残っています。「何を惜しみ 何を恨まん 元よりも この有様の 定まれる身に」毛利元就の急襲は全く予想外の出来事だったと推察されます。毛利元就が10倍近くの敵を打ち破った厳島の戦いですが、勝因は毛利元就の智略と勇気に尽きると思います。陶晴賢を厳島に誘き出すにあたって、オトリのために宮尾城を築いたのですが、オトリの城を築城しただけでは、陶晴賢もすぐには渡海して来ません。そこで毛利元就が使ったのが、得意の謀略です。1.家臣の桂元澄を陶晴賢に寝返ったと見せかけ、陶晴賢に対し「厳島へ渡海すれば、呼応して毛利元就に対して挙兵する」という偽の書状を書かせた。2.オトリの宮尾城を築城すると、宮尾城には陶晴賢を裏切った武将を守りにつかせた。さらには「宮尾城の築城は失敗だった。攻められたら危ない」と偽の情報を流した。ここまでされては、厳島に渡海して宮尾城を包囲するのが当然の流れかと思います。陶晴賢は毛利元就の謀略に引っかかったことになりますが、陶晴賢は中国最大の大内家を乗っ取ったほどの人物であり、決して凡将ではありません。やはり毛利元就の勇気と器量が、陶晴賢より数段上だったように思います。嵐の中でも将兵を勇気付けながら渡海し、自ら先陣に立って攻めこんだことが、劣勢を挽回する決め手になったのかも知れません。毛利元就が西日本最大の武将へと躍進する契機となった「厳島の戦い」ですが、ここを訪れると改めて毛利元就の智勇に感服します。戦国時代という日本でも特異な環境下で生き抜いてきた戦国武将たちの智略や勇気は、現代に生きる私にも大いに参考になるところです。関連の記事広島城→こちら宮尾城→こちら厳島神社→こちら