岡城(豊後国)~その2
三の丸から西の丸の方向を振り返ると、尾根上に浮かぶ石垣群が、まるで別の城郭を見ているようでした。とにかく石垣遺構がよく残っているのが驚きで、三の丸の虎口にも櫓門の石垣が残っていました。三の丸虎口にある太鼓櫓の櫓台と桝形跡三の丸から北の方を眺めると、くじゅう連山を望むことができました。また南側の眼下には、白竜川の清流を見ることができます。岡城の本丸は梯郭式の縄張になっており、本丸の2方向を三の丸と二の丸が囲む形になっています。本丸は一段高い場所にあり、三の丸からも二の丸からも直接行けるようになっていました。三の丸から見た本丸石垣築城当時の石垣がここまで残っているとは、はるばる来た甲斐がありました。三の丸(本丸から見たところ)かつての二の丸には月見櫓が建っていましたが、それは軍事施設としての櫓ではなく、詩歌・茶の湯・酒・書画・音楽など、文化的な要素のある櫓だったようです。また、二階建ての風呂屋が建っていたようで、一階に風呂があって、二階に畳の座敷と涼をとる簀子があったそうで、さぞ優雅な暮らしだったかと思います。二の丸跡碑現在の二の丸には、「荒城の月」の作曲者である瀧廉太郎像が建っています。瀧廉太郎は豊後竹田で暮らしたことがあり、「荒城の月」は岡城をイメージして作曲されました。標高325mの天神山山頂部にある本丸は意外と広く、周囲の視界も開けているため、開放感がありました。本丸には天満神社の社殿があり1593年に中川秀成が入城した時から鎮座しています。祭神は学問の神様菅原道真で、現在の社殿は平成の大改修によって修復されました。岡城は1586年に島津軍3万の攻撃を退けた難攻不落の城であることから、この神社も「不落」の験を担いで参拝する人が多いようです。岡城の歴史は鎌倉時代に遡り、1185年に緒方惟栄が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したと伝えられていますが、緒方氏は上野国沼田に流されているので、確証はありません。南北朝時代から志賀氏が岡城を居城としており、島津VS大友氏の争いの中で、志賀氏は大友氏についていました。島津氏の大軍に攻撃されたのが1586年のことで、その功により豊臣秀吉から感状も与えられましたが、大友氏が豊後の領地を没収されると、志賀氏も岡城を去っています。(島津氏や大友氏の名前が挙がってくるあたり、九州に来たことを実感しました)1594年に播磨国三木から中川秀成が入部し、現在に残る近世城郭へと整備・拡張を行いました。岡城の建造物は明治時代の廃藩置県によって取り壊されたのが残念ですが、石垣の遺構は見事なまでに残っており、当時の建物の姿も浮かんでくるような気がしました。日本城郭協会「日本100名城」