桶狭間古戦場(愛知・豊明市)
桶狭間の戦いは「日本三大奇襲戦」の1つに数えられています。ちなみに日本三大奇襲戦とは1.桶狭間の戦い…織田信長2,000VS今川義元25,0002.河越夜戦…北条氏康8,000VS古河公方と山内・扇谷上杉連合軍80,0003.厳島の戦い…毛利元就3,500VS陶晴賢27,000いずれも10倍の敵を前にした大劣勢からの勝利です。織田信長・北条氏康・毛利元就それぞれの作戦が功を奏した戦いでもあり、これらの戦い以降、織田信長は天下を掌握し、北条氏康は関東の最大勢力に、毛利元就は西日本の最大勢力へとのし上がって行きました。さらにこれらの戦いで共通しているのは、周到に練り上げられた作戦と数少ないチャンスを逃さなかった勇気と決断力だと思います。織田信長が乾坤一擲の勝利を手にした桶狭間の戦いですが、実は桶狭間の戦いの位置をめぐっては諸説があります。愛知県豊明市には桶狭間古戦場の碑があり、桶狭間の戦いの伝説地とされています。下に小さく「伝説地」と書かれた桶狭間古戦場の碑現在は公園として整備されています。今川義元が戦死したことを示す最も古い碑「七石表」1771年に建てられたもので、「今川上総介義元戦死所」と書かれています。(確か織田信長も後に上総介だったような)今川義元の墓所桶狭間古戦場のすぐそばの小高い場所には、高徳院というお寺があります。高徳院山門境内には碑が建っており、ここが今川義元の本陣跡とされています。今川義元本陣跡の碑1560年、今川義元は駿府を出て尾張を目指して進軍して行きました。その数は25,000の大軍です。今川軍の中には、当時は人質として駿府にいた松平元康(徳川家康)もいました。松平元康たちを先鋒とする今川軍は、次々と織田軍の砦に襲いかかり、歴史に名高い戦いの火蓋が切って落されました。一方の織田信長は、わずかな従者のみを連れて清洲城を出発、熱田神宮に織田軍を集結させると、今川義元の本陣目指して進軍して行きました。突然の豪雨が降って戦いには不利な状況となったのですが、雨が上がると織田信長軍は一気に今川義元本陣に襲い掛かりました。数では圧倒的に有利な今川軍でしたが、戦力を分散させていたことやもあり、急襲を受けて大混乱となります。その混戦の中で今川義元は討ち取られ、織田信長は意気揚々と清洲城に凱旋して行きました。結果として織田信長の大勝利に終わったのですが、数の上では圧倒的に劣勢な状況です。織田信長は今川義元本陣の位置を逐一報告させ、その場所を常に把握していました。桶狭間の戦いは、織田信長の知略が光った戦いであり、単なる局地戦での勝利ではなく、「天下布武」の第一歩だったのかも知れません。