山中城(伊豆国)~その2
興国寺城、韮山城、そして山中城本丸と見てきましたが、いつの間にかお花見はどこかへ行ってしまいました。その山中城本丸から国道1号線を挟んだ向かい側には、「岱崎(だいざき)出丸」という独立した曲輪群があります。岱崎出丸の縄張り図1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時、秀吉軍の進攻に備える目的で急造された曲輪群です。秀吉進攻のぎりぎりまで増築は続けられたのですが、結局未完成のまま秀吉軍の攻撃を受けました。実際に岱崎出丸を見渡すと、変化のない緩やかな斜面の曲輪が広がっていました。すり鉢曲輪まで残り120ヤードくらいでしょうか。(ここは7番アイアンか)途中にはいくつか曲輪があるのですが、やはり本丸部分に比べて脆弱な感じがします。馬場曲輪すり鉢曲輪急造の曲輪とは言いながら、それでも周囲には畝堀が張り巡らされていました。結局豊臣秀吉の大軍に包囲されて、山中城は落城してしまいました。落城後は廃城となっていたため、かえって戦国時代の遺構が残ってますが、全く皮肉としか言いようがありません。山中城は1558~1570年の永禄年間に、小田原の北条氏康により築城されました。当時は北条氏と緊張関係にあった武田氏に備える目的で造られたのですが、その後北条氏と武田氏は和睦したため、山中城は本来の役目を終えるはずでした。しかしながら1590年に豊臣秀吉が小田原攻めを決定すると、にわかに西に備える重要拠点となり、この時に西の丸や岱崎出丸が急造されています。結局17倍の豊臣秀吉軍に包囲されて、山中城はたった半日で落城し、豊臣秀吉の関東侵入を許す結果となりました。山中城の後は、小田原城の攻防戦で豊臣秀吉が本陣を置いた石垣山一夜城へと向かいました。戦国関東の終結とも言うべき小田原城攻防戦とともに、次回ご紹介したいと思います。