八王子城(武蔵国)その2
八王子城は山麓の御主殿部分と、城山の本丸部分とに分かれています。八王子城の縄張り。城山は詰城のような存在だったのかも知れません。御主殿を見た後は、本丸のある城山へと登って行きました。登城道入口。八王子城の登城道は、陣場山への登山道でもあるため、ハイカーの人たちも多く利用する道でもあります。登城道脇を見ると、腰曲輪がいくつも巡らされていました。腰曲輪の跡。御主殿部分と違って、戦国の山城っぽくなってきました。「金子丸」の曲輪の跡。八王子城の攻防戦では、金子三郎左衛門家重が守っていたことから、「金子丸」と名付けられました。曲輪と言われればそうですが、当時は土塁や堀切などの防御設備があったことでしょう。それがただの平らな土地になってしまっており、攻防戦の激しさがわかるような気がします。急な斜面を登ること約30分、ようやく本丸の土塁らしきものが見えてきました。本丸の土塁かと思いきや、これも腰曲輪の1つでした。山頂部分に近づいて来ると、さすがに眺望も開けてきました。本丸直下から見た新宿方面。ここからは武蔵はもちろん、下野・常陸・下総・相模…と、まさに関八州を一望することが出来ます。北条氏照ならずとも、なんか勘違いしてしまいそうな感じがしました。城山の山頂部分には曲輪の跡がいくつか残っています。八王子神社の建つ二の丸跡。八王子城よりもずっと昔の913年、華厳菩薩妙行がここで修行をしていると、牛頭天王と八人の王子が現われました。その因縁でここに八王子権現を祀ったとされ、それが「八王子」の語源となっています。その八王子神社の裏手には、さらに細い道が続いており、その先には小さな曲輪と祠が建っていました。その傍らには城跡碑が建っており、ここが八王子城の本丸です。八王子城の攻防戦では、横地堅物吉信がここを守っていました。御主殿のある山麓から、ようやくの思いで本丸のある城山の山頂にたどり着きました。普段山に登っていても、これは相当な登りです。そんな堅固な山城が、たった1日で落城してしまうとは…八王子城の築城時期は明らかではありませんが、北条氏照が1582年頃に築き始めたと言われています。北条氏照は、それまでの本拠地であった滝山城から、八王子城へと居城を移しました。その移転の理由は明らかではありませんが、滝山城を武田信玄に攻められて落城寸前になったことや、甲斐との国境にある小仏峠の防御を固めるためだったと言われてます。北条氏照と言えば、北条氏康の次男であり、第4代当主北条氏政の弟でもあります。(ちなみに弟には、「天地人」にも登場する上杉謙信の養子、上杉景虎がいます)まさに関八州を席巻した北条氏でしたが、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際、八王子城も豊臣方の前田利家・上杉景勝・真田真幸などの北国軍に攻め込まれることとなりました。豊臣方との間で激しい攻防戦が繰り広げられましたが、15,000人の北国軍の前に、たった1日で落城してしまいました。八王子城がたった1日で落城したことは、北条氏の本拠地である小田原城の開城・降伏を早めるきっかけとなったと言われています。この時城主の北条氏照は、小田原城に詰めていたため、八王子城にはいませんでした。しかしながら小田原城が降伏・開城すると、兄の北条氏政と共に切腹を命じられています。(小田原城の記事→こちら)八王子城での壮絶な攻防戦で、八王子城の婦女子たちは次々と自刃し、御主殿の奥にある滝へと身を投じていきました。今でも残る「御主殿の滝」。多くの人たちが自刃して身を投げたため、八王子城を流れる城山川は、三日三晩も血に染まったと伝えられています。現在の城山川は清流をたたえており、壮絶な攻防戦は遠い昔のこととなっていました。