友の自分史「ブラジル五十年」が面白い。
7月7日から宮崎日日新聞の窓欄で連載が始まった自分史シリーズ「ブラジル五十年」著者の長友契蔵さんは奇しくも吾が学友であるが、学生時代特に親しかったわけでもない。大学(宮大農学部農学科農業経済学専攻)卒業後すぐにブラジルへ。それから50年がたった。写真は、宮崎県人会長として作成した県人会のシンボルマークを紹介。その歴史を、自分の生い立ちを交えて100回以上連載するので楽しみにしていた。本日、3日分を切り抜いてまとめ読み。「生い立ちの記」が実に面白い。実家は、宮崎市近郊の資産家(農家)であるらしいが父親は8人兄弟の長男で教師。彼は、男5人、女3人、11人兄弟の8番目で三男、長兄が元宮崎市長の故長友貞蔵氏。貞蔵氏は宮崎大学農学部から農水省、宮崎市経済部長、総務部長、助役、県議を経て市長。1953年、長兄貞蔵氏の農林省就職の壮行会写真がついている。父親の兄弟8人を育てた祖母ケサギクを長友家の中興の祖として述べている。彼の父親が長男で師範学校を出て教師、三男が高等農林を出て営林署、四男も同じ、五男は京都帝大を出て三井、六男も京都帝大を出て内務省へ。「当時子供を大学まで出せるのは相当の資産家でなければできないことであった」「祖母は、子供を教育し、田畑や山林を増やしていった。どうしてこれだけのことができたのかわからない」「われわれきょうだいが全員無事に勉強できたのも祖母のおかげであった」これで、<3>はおわり。写真は、倹約のため?乗り物には決して乗らず、肉を食べなかったという祖母。故長友貞蔵元市長は活発で結構豪傑であったが、契蔵君は寡黙でしっかり勉強するタイプ。県庁職員採用を辞退して渡伯したくらいだからよほどの決断力があったのであろう。地方大学から国家公務員上級職に合格した7歳年長の長兄を尊敬し、研究室も同じだった。「生きていて宮崎県発展のために尽くしてもらいたかった。兄にはそれができたような気がする」ちなみに貞蔵氏は、1930.5.28~1994.5.4、64歳を目前に亡くなっている。県外在住で、このブログを読んでいるかもしれない学友の諸君、続報を楽しみにね。