失くしもの
昨夜のこと。家内が帰宅するなり、家の鍵をなくしたと大騒ぎ。小銭入れのようなところに入れてあったのが、家へ帰ったらないのだと言う。ちょうど、ぼくもうたたねをしていたし、娘たちはテレビに夢中だったので、ピンポンしてもだれも出ない。次女の携帯に電話してやっと開けてもらったという次第だったようだ。家内は、鍵がないとなると、もう次に頭が回転する。あそこを探そう、ここを探そう。それでもなければ、合い鍵を作らないといけない。とにかくせわしない。ぼくは、「見つかる」というのが基本にあるから、まず、何気なくどこかへ置いて忘れてしまっている可能性から考える。すぐには見つからなくても、必ず出てくるはずだ。伊達に、人よりも多く失くしものをしていない。ものを失くすというのは、ある種のシグナルである。そこに目を向ける。何のシグナルかはわからなくていいけど、何かの意味があると思うことだ。そういう謙虚な気持ちにならずに、あわてたりだれかを責めるだけだとまずは見つからないものだ。じっくりと、気持ちを落ち着けて、何か自分に落ち度があったのだろう、その意味は、そのうち必ずわかるものだ、ぜったいに見つかる。そう言い聞かせて、夜なら寝てしまえばいいのだ。ぼくは、夢を見た。鍵が見つかった夢だ。朝起きて、その夢をきちんと覚えていた時点で、きっと見つかると確信した。でも、根拠のある話ではないので、だまっていたけど。家内は、「今日、合い鍵を作ってきて」と、相変わらずせかせかしている。ぼくは、何かと理由をつけて、作らないという方向に話をもっていった。だって、見つかるのだから、作る必要はない。6時半に、ぼくは吹き矢の大会があったので、家を出た。ドアを開ける。お迎えの車が来ているので、急いで階段を下りた。そしたら、階段の下に、鍵は落ちていたのだ。どうでもいいものは見つからないけど、必要なものは見つかるものだ。ぼくにとっては、ありがたい出来事だった。これで家内も、どうでもいいものを、ぼくが失くしたと、責めることもなくなるだろう。カメラのときもそうだけど、本当にありがとうと、天に頭を下げるばかりだ。