うつ病だったSさんのこと
Sさんが僕の前に現れたのは、僕がカルチャーセンターで文章講座を始めたときだった。けっきょく、大して人が集まらず、一期で終わった講座だったが、彼との出会いを作ってくれるためにあった講座のみたいなものだった。Sさんは、重度のうつ病で退院したばかりだった。耐え切れないようなストレスが連続して起こり、彼の精神は破綻をきたしたのだという。娘さんの事故死、転職、仕事上のストレス・・・。うつ病だった。何もする気が起きなかったけど、僕の「イルカみたいに生きてみよう」という本だけは読めたのだと、彼は語ってくれた。そして、僕に会いたいと思っていたときに、新聞に文章講座のチラシが入っていて、すぐに申し込んだのだと言う。それが3年ほど前のことだった。その後、佐藤初女さんの森のイスキアへ一緒に行ったり、睡眠プロデュース協会の仕事を手伝ってもらったり、彼とはいろいろと話をする時間をもつことができた。まじめで、僕とも誠意をもって接してくれる。こういういい人だから、心を病んでしまうのかなあと、いい加減に生きている自分を幸いに思ったものだ。薬を減らし、できるだけ外に出るようにする中で、薄皮をはぐように、心は元気を取り戻していった。先月、彼と久しぶりに会った。1年半ほど前からマッサージを習っている。忙しい日々が続いていたが、体も心もとても快調だという。いろいろな人がサポートしてくれて、ずいぶんと腕もあげ、今は講師をやっていた。「すごい進歩だよね」と感心すると、照れた笑いを浮かべた。でも、きっと、その仕事は彼に合っていたのだと思うし、この1年半、人生を甦らせるために一生懸命に働き、勉強したのだと思う。以前のようなオドオドした雰囲気が少なくなり、話の端々に自信が見て取れた。「本当にお世話になったので、一度、ゆっくりとマッサージさせてくださいませんか。恩返しというと大げさですが、どうしてもやらせていただきたいと思っていたので」うれしい申し出だ。僕は、「じゃあ、来月、頼みます」と、7月の約束をした。そして、その当日、彼はマッサージのためのユニフォーム、オイルなどをかばんに入れて我が家にやってきた。そして、マットレスの上で横になた僕を、2時間にわたって、もみほぐしてくれたのだ。彼の一番ひどいときは知らないけど、本人も社会復帰ができるとは思ってもいなかったようだ。家族とも離れ、将来の不安を抱え、僕など想像もできない辛い気持ちでいたのだろうと思う。そんな状態から、ここまで復活した彼の姿に、僕は感動する。これから、彼は、癒しの世界で生きていくことになるだろうが、彼の辛かった体験は、必ず生きてくるだろう。「Sさんは、この仕事、合ってたんだよね」というと、本当に嬉しそうな顔をして、ペコンと頭を下げた。笑うと、目じりが極端に下がり、普段の二枚目の顔が、ちょっと面長なえべっさんのようにふくよかになる。40歳をすぎての再出発。それも、どん底からはいあがってきたエネルギーは、これからすごい花を咲かせるはず。アボリジニのフラワーエッセンスで言われているように、花は、咲くときにすべてのネガティブエネルギーをポジに変換する。その変換のエネルギーを、彼のマッサージからはいただいた。Sさんの体験は、うつ病で悩む人たちに勇気を与える力をたくわえつつある。今年、彼は僧侶に資格をとる。亡くなった娘さんの供養の意味も込めて。彼のこの数年を見ていると、人生、どんなふうに展開するかわからないことを痛感させられる。たくさんの人がたくさんの奇跡を見せてくれている。楽しいなあ。生きるって。と、僕は思えて仕方ない。