秋の訪れは怒涛のように
怒涛のような秋の訪れは、緊急事態宣言後の心の渇望を五感のすべてから満たしてくれた。台風の修復工事のために11月からの閉園が決まった長居公園にも行った。好きだった古代の木々は、少し元気を取り戻していたのでほっとした。バラ園はもうほとんど咲き終わりのようだった。この日の曇天が、意外にも白いバラを綺麗に演出してくれた。この日、カメラのメモリ切れで画素数の少ない携帯で撮ったことも逆に良かったようだ。全くの素人写真だから、反って、天候や機能性の悪いことが良い結果を生むこともあるんだと気付いた。人生に似てる気がしてホッとする。代わりにダリアが満開だった。バラの高貴さは無いけれど、ダリアにはおどけたような笑顔を感じて心が躍る。「肩肘張らないで、もっと自由に楽しめばいいんだよ。」なんて、囁きかけてくれてる気がするのだ。人間として生きてる私たちは、言語を中心に五感で日常を生きている。ただ、聴覚も視覚も言語も味覚も触覚も持てない人もいる。だからこそ、植物も動物も共通の意思疎通のツールが存在するはずなのだと思ったりする。ダリアの囁きもきっと、そんなツールの一つかもしれない。京都にも行った。桂離宮近くにある筍亭の竹林だ。京都での話は、主人の事務所のブログで紹介している。紅葉の季節になると、外出も二の足を踏む。私も主人も、人出の多いところが苦手だからだ。それに加えてコロナ禍だから尚更のことだ。近所の神社でプチ紅葉を味わった。晴れた日の朝は、光との共演が素晴らしい。桜紅葉という言葉があるらしいけれど、花の慎ましさとは違って、葉の一枚一枚がしっかりとしていて鮮明な色を様々に発している。食卓にお皿として使うと風流なのだそうだ。ランニング中、道端で懐かしい雑草を見つけた。子供の頃は、当たり前のように見ていた雑草も見られる所が貴重になった。水換えをルーズにしていても、雑草はしっかりと生きている。やっぱり頼もしいんだなと思う。英字新聞を置くおしゃれに見えるけれど、日本語の新聞だそうはいかない。英語コンプレックスのせいだろうか・・・それとも、外国人からはおしゃれに見えるのだろうか・・それとも、日本語コンプレックスがあれば、もっと素敵に見えるのだろうか・・ にほんブログ村別窓で開きます日常の小さなできごとを愛する生活