YesとNoの使い方
英語の話です。私が英語についてとやかく言うなんて、大変心苦しいです。私の英語力を知っている友人からすれば噴飯もので、「え?あなたいつからそんなにお上手になられたの?」なんて言われそうです。私の英語のレベルは、今もってかなり低く、すっきりと自然に英語を話せたことは今だにありません。確かにモンゴルでは英語で授業していますが、まあ授業内容の知識格差とモンゴル人の生徒の英語力の低さでなんとかやってるようなもので、アメリカへ行って同じことができるかと聞かれれば、相当辛いと答えるしかないレベルです。なんで、こんな前置きをしているかと言うと、モンゴル人の英語の特徴をちょっとお話しようと思っているわけです。ですが、断るまでもなく、私の英語が上手で、彼らの欠点を見つけたというのではないことをご理解ください。むしろ、私が以前とても苦労した部分を彼らが持っていることに「共鳴した」ということの方が正しいです。モンゴル語は、文法的には日本語とよく似ています。にもかかわらず、まだまだモンゴル語習得で全然進歩してない自分を情けなく思いますが、まあそれはそれでおいて置いて、気づいたことを話します。Yes とNoの使い方の問題です。私が以前、今よりももっともっと英語が下手だった時に、PE(Private Equity)を立ち上げて、経営していたことがあります。そのファンドの投資家は欧州でしたので、結構頻繁に欧州に行ってました。また、大株主は、これまた頻繁に日本に来てましたので、当然英語で話さざるを得ない機会は多かったです。私が英語下手だということは、十分に彼らには伝えていたので、下手なことそのものをとやかく言われることはありませんでした。(多分、心の中では、そう思っていたでしょうけど)ですが、時々このYes とNoの使い方には躊躇したことがありました。日本人はなかなかゼロ百では考えられません。例えば、「日本で業績優良な内容の会社を100%買収できるのか?」と聞かれれば、少なくともその当時は、ほぼ無理です。ですが、この「ほぼ」が大切なんです。日本人同士なら「そりゃあ、難しいでしょうね」で大体わかります。なぜ、「ほぼ」とか「難しい」などという言い方をするかと言えば、日本の優良企業を全部知ってるわけではないし、私の知らないところでどんなM&Aが起こるかわからないからです。ですが、英語で「Difficult」というと、無理なわけではなく、何かの障害を取り除けばできそう、という風にも取られます。そんなこんなを瞬時に考えていると、Yes はもちろん言えませんが、Noもなかなか言えません。で、口から出るのは「ウーン・・・」です。もう一つ、Yes とNoの使い方で困ったのは、否定形文に対してです。もし「日本人は肉を食べないの?」と聞かれれば、当然「いいえ、食べます!」でしょう。つまりNoと答えたくなります。が、英語では「Yes, we do」となります。この辺の使い方は、一時結構考えさせられたものです。私のYes やNoの反応で、相手が驚くのです。それを見て、また私も驚いて、自分の間違いに気づく、というわけです。何度かこう言われました。「あなたは、日本人にしては珍しく、ロジカルで話がわかりやすい。でも、時々私の質問に躊躇してしまいますが、それほど難しい質問ということでしょうか?」と。それは、難しい質問なのではなく、ちょっとだけ、ほんの数秒、頭で考える時間が必要なので、それが躊躇に見えてしまうというわけです。ただ、そうやって鍛えられただけに、今ではすっかり割り切って即座に返事ができるようになりました。「ほぼ無理」とか「すごく難しいですね」と答えたくなるようなものは、即座にNoと答えます。彼らは、客観的事実を聞いているのではなく、私の考えを聞いているのだと思えば、多少の曖昧な部分も気になりません。否定形も今では躊躇なく答えられるようになりました。で、モンゴル人です。今まで私がある程度の会話をしたモンゴル人は、当然ですが、全員日本語か英語が少しでもできる人です。サンプル数はわかりませんが、英語だけでも学生を入れれば結構な数はいると思います。その彼らと話して、今のところ100%の確率で間違った使い方をするのが、否定形の疑問に対するYes とNoの使い方です。まるで、昔の私を見ているようなので、その思考回路は手に取るようにわかってしまいます。「これ好きじゃないの?」「No。好きです。」は典型です。意識して、否定形の質問をすると、100%自分の言いたいことと反対の答えが返ってきます。「Do you mind if I smoke?」的な質問も、吸っていいときにYesと反対に答えます。当然最初は、個人の英語力の問題だと思っていました。ですが、かなり英語が上手な(私よりもずっと上手な)人やアメリカ留学帰りの人まで、同じ間違いをしています。私の考えでは、日本人やモンゴル人は、質問の主体が相手にあると考えるので、相手の言いたいことに「同意」するかしないか、を答えるのでしょう。「お腹空いてない?」と聞かれれば、相手の考えが「空いてない」と思うので、空いている場合はそれを否定し「いいえ、お腹空いてます」と答えます。他方、欧米人は、質問に答える主体が自分だと考えるので、「お腹空いてない?」と聞かれれば、自分の状態が空いていれば「はい、空いてます」と答えるのでしょう。この違いは結構決定的です。相手を中心に考えるのか、自分を中心に考えるのか、です。突き詰めれば、文化やものの考え方にまで影響しているような気もしてます。日本人にどのくらいこのミスが多いのかはわかりませんが、外国人にあまり接することのなかった昔の私は、多分いつも間違っていたのではないかと思います。モンゴルで日常的に英語で生活するようになり、このミスを明確に意識するようになりました。ただ、モンゴルでは皆が(今のところ)100%間違って使っていますので、私はいちいち指摘なんかせずに、ミスを前提に話しています。こう書いている私自身のこの説明にも、もしかして間違いが多いのかもしれませんが、それはそれでご容赦ください。ただ、モンゴル人も日本人と同じようなミスをするということは、やはり文法や言葉の歴史が通じ合っているからなのだと思います。