平凡であることの尊さ。
サヴァン症候群てのは、ある一つの才能においては天才的なのに、その他はてんでダメという特別な人のことらしい。ま、思春期の人たちにとっては憧れになるかもしれない存在かな?でも、本人はちっとも幸せじゃない。このたび、西尾維新の戯言シリーズをとうとう最後まで読み終えてしまった。ふーん。(読後感)半年くらい前から、気になっているアメリカドラマがあって。性格は破滅的に悪いが、名医というDr. Houseの物語。いやあ、こういう人、絶対にいるってば。でもって、本当に確かな診断を最終的には下し、ちゃんと治すところが、ツボ。Dr, Houseにもサヴァン症候群の患者が出て来るのだよ。幼い頃に乗り合わせたバスが事故に遭って、それがもとで脳に損傷を負い、結果音楽の才分(特にピアノ)を発揮するでも、自分自身のことは何も出来ないサヴァン症候群になる。どのようなメロディーを聞いても、即座に再現してみせる天賦の才。華麗なるピアノテクニック。でも、彼自身はちっとも幸せそうじゃない。それを指摘しながら、致命的な彼の身体的な病状をも見いだしたDr. Houseは、父親にこう告げるのだ。「脳の右半球が全く働いていない。 半分脳死状態だ。 だから、右半球を摘出する手術を行わなければ 彼はほどなく死を迎える」身を切られる思いで手術を承諾する父親。右半球を摘出した男性は、言葉を取り戻すには時間がかかったようだが、Dr.Houseが診察のために外したパジャマのボタンを思わず自分で止めることが出来る。そのときの彼の心底満足そうな笑みを、Dr.Houseは見逃さなかった。「ほらご覧、彼はとても幸せそうだ」その言葉に、心底納得かつわが子の幸福感を見て取った父親も満足げに微笑みながら頷く。Dr.Houseが父親に手術を承諾させたのは命長らえるということだけではなく、「(ピアノが天才的に弾けるからといって)それで あなたの息子は本当に幸せだと思うのか?」という問いかけだった。果たして。青色サヴァンこと、戯言遣いの永遠の恋人は、サヴァン症候群から、自力で回復する。それは戯言遣いへの愛故でもあるのだけれど。ごくごく当たり前であること、生活支援、自分のことは自分自身で、自分がやりたいこと、自分のことは自由にできるようでありたい。即ち、自分自身の足で立ち、自分自身の力で生活を組み立て、生活していきたい=生きて行きたい。それこそが、生き物、動物であるところの私たちの本当の自由。己の望むがままに生きて行きたい。一芸に天才的に秀でることよりも、自立自律の生活、それが叶うことにこそ喜び、幸せを感じる。天才には天才でなければ理解できない苦悩があるというよりは、当たり前のことを当たり前のように出来る自由のほうが、かけがえのないことなのかもしれないね。何の制約もなく、役割にも縛られず、己自身を発揮できる環境にあることの尊さ。ふふっ。凡人であることの尊さってのは、凡人には理解できず。宿題がたくさんあるのに、さ。おおよそに平らかであることの尊さ、平凡であることの希少さ。それは、私の母がいつも語り続けて来たことだった。