4週間後に、ようやく退院、生還です。
髄膜炎って、生きて帰れるか、そうではないか、二つにひとつの結末を迎える病気なんだって。今、どのくらいの状態なのかをはかる物差しは以前も書いたように、採取した脊髄液にどのくらいの数の白血球が存在するかだ。夫の場合、入院直前の検査では、これがかなり高い数値で、“生きて帰れるかどうかはなはだ疑問”エリアに位置していたらしい。その後、幸いにも白血球の数が減っていったので、少しずつ“生還”エリアに近づいていった。けれども、これなら大丈夫と言えるところにまで、なかなか到達せず、気がつけば4週間近く経っていた。本人によると、ずっと頭痛が続いていて、主治医に「そろそろ治ってきた?」と聞かれ、つい、うやむやな返事をしてしまったらしい。「だって、頭痛が治らないと退院出来ないって言われたくなかったもん」本当の問題は、頭痛よりも白血球の数、なのだった。ようやく退院が決まった日も、実は求められる数値にまでは到達してなかった。ただ、あと少しというところにまで減少しており、本人の体力の回復状態なども考慮して、退院決定。まあ、“おまけ”してもらったって言うことかな?娘が生まれたときも、ある大会に出られなかった。今回の入院でも同じく。私の父が亡くなったときは、大きな大会準備に向かう前日で、「もう、まったくおじいちゃんったらあ……。 やられたなあ」と思ったそうだ。秋は彼にとって、一年で一番忙しい時期だからね、何かあると影響が大きいのさ。でも、夫の入院で、最も打撃を被ったのは、私と娘。娘なんか、私が忙し過ぎて学校を休む羽目に陥った。休ませると決めたとき、嫌だとは一言も言わなかった。「ごめんね」と謝ったら、笑顔で「大丈夫」と言った。二日休ませただけで週末に突入、そのまま夫の実家に泊まらせた。休日返上で仕事場へ出かけ、そのまま徹夜になったり、自宅にはいるものの、缶詰め状態で原稿を書いていたり。一人暮らしじゃないんだから、なんとかしなさいよ状態だね、私ったら。夫が自宅に戻ってきた日、エントランスロビーに入ると、なんと管理人さんが飛び出してきて「長かったねえ」と夫を労ってくださった。そうそう、この年は管理組合の理事もやってたんだっけ。1回しか会議に出られなくて、翌年はお役御免になったけど。生きて帰ってこれて、よかったねえ。喜びも束の間、夫を寝かせて、その日もまた仕事場に向かう私だった。