「あなただから出来る」ケアを。
今年に入って3度目の帰省から戻って来た。どちらも同じくらい寒い。週末には、さらに寒い東北へ行く。昨日は、ずっと母に付き添ってくださっていた看護学部の学生さんの実習最終日だった。人工股関節置換術を受けた人が避けるべき姿勢を図解して説明する資料を作成、解説付きで母にプレゼントしてくれた。それでなくともじ~んとしてしまう状況で、さらに、しんみり。彼女の口癖が気になっていた私は、お別れに、その口癖はやめたほうがいいよと老婆心ながら、言ってみる。「わたしなんかが」なんて、絶対に言っちゃダメ。言葉は案外恐ろしいもの。その言葉がいつかあなたを縛るようになる。頑張っている自分を認めようよ。夜になって、「わたしなんかが」の反語は「わたしだから(出来る)」だと思いつき、その言葉こそを贈りたかったなあと、後悔。病に苦しむ人を支えるのが仕事なんだから、その仕事に携わる本人が「わたしなんかが」なんて思い続けて欲しくないと思ったのだった。若いからこそ、出会う患者さんたちのバックグラウンドに触れるたび「わたしなんかが」と感じることは多いだろう。その謙虚な気持ち。それだけではない。ふと出てしまう言葉には、もっともっと深い意味があるかもしれない。と、勝手に推察しながら。本当はいけないことだと知りつつ、食べきれなかったロールケーキを無理矢理差し入れたりもしたけれどね。妹が駆け出しの医者だった頃。昼食を食べ損ねたことを知った患者さんにパンを差し出されて看護師さんに叱責されたと舌を出して報告してくれたことあったっけなあ。その距離感の保ち方は難しい。何せ、いのちの現場だけに、ね。そこでは誰も取り繕うことさえ出来ない。圧倒的なやりとりがある。医療者と患者はチームなんだ。ただし、患者それぞれに、チームとして認める認め方というか、やりとりのルールが違う。医療側は一線の引き方を決めてはいるけれどね。でも、大病院と地域の開業医とではその線の引き方は違うよ。母と私は、学生さんに近づき過ぎたかもしれない。でも、学生さんの挨拶のあとに教官が訪れて、私たちの感謝の気持ちがちゃんと伝わったことがわかった。あなただから出来るケアを。大丈夫、絶対出来るようになるよ。母が入院する病院にはNICUもある。エレベータで上階へ向かうとき、NICU関係者とおぼしきスタッフが乗り込むたび、思わず声をかけそうになる。来週、娘を伴って母の元へ赴く。