「絶望」という気持ちを抑えて来たけど。
イベントと総会が無事に終了し、ほっと一息の日曜日。昨日は、総会出席のために、はるばる大分からお越しいただいたM先生に、「何だかものすごく疲れていらっしゃるようだけれど、 大丈夫?」と訊ねられ、思わず3.11からこれまでのことをかいつまんでお話しする。「そう。 ここ数日の疲れではないのね」そんなに長い間蓄積されていたのなら理解できるというふうに受け止められたようだ。お会いするのはほぼ1年ぶり。1年前は、そんなにはつらつとしているように見えたのかしら。自分自身でも、昨年と比べて、随分衰えているなあと感じている。ただし、その衰えと、ここ3カ月ほどの疲労困憊とは次元が違うようにも思う。ともあれ、最大の懸案事項が何とか終了したことで、手かせ足かせが取れたような気分を味わいながら目覚める。多少は休んでもいいかな、とようやく思える感じ。妹は、現在学会でヨーロッパに出かけている。昨年から予定されていたことだけれど、思いがけず良い気分転換になるだろうなと感じているところ。同じように、私も、しばらく東京を離れたいなあ。被災地の妊産婦さんに安心してお産をしてもらえるよう東京里帰りプロジェクトが立ち上がり、すでに二ケタの妊婦さんとそのお子さんが東京でゆったりと過ごしていらっしゃる。全員、福島の方だそうだ。さもありなん、プロジェクトがあってよかったと強く思うのだけれど。このところの地元をはじめとする千葉県や東京都内の乳幼児の親御さんたちの言動やガイガーカウンターを手にした方々の動きを見ているとなんとも複雑な気持ちにもなる。ケタが違うレベルの放射線量を気にしている。出歩く度に怪しげな計測方法で測った数字におびえている。福島より安全であるのは事実であってもこんなにヒステリックになってる人が住んでるところにリアルに深刻な事態の中で暮らしていらっしゃる方々をお招きしても、本当に大丈夫なんだろうか?今日も、地元では放射能から子もどもを守ると称して、地元行政による放射線量計測を望む署名を議会に提出した報告会が行われた。計測はいいけど、その数字が意味するところをきちんと解説してくれないと、計測の意味がない。こうした動き、これまでにも似たようなものはいくつもあって、その都度言いようのない違和感を覚えてきた。「情報を得たい」とあれこれ集める人、収集ツールを得て集める人に直に話を訊いてみて目的や使いこなし方に納得できたことがないのだよ。でも、何故納得できないのか、うまく言葉にできなかった。今起きていることに対しては、言葉にできるような気がする。3,11以降、おびただしい資料は読み込んだけれど、ほとんど本を読むことができなかった。読み込んだ資料のほとんどは、原子力や放射線に関するもの。ようやくまともに本を読める状態になったのだけれど、読んだ本は、次の2冊。「大津波と原発」(内田樹+中沢新一+平川克美/朝日新聞出版)「いのちと放射能」(柳澤桂子/ちくま文庫)特に、敬愛する柳澤桂子さんの著書はチェルノブイリ原発事故を契機に書かれたものがベースになっていて、放射線について知りたい方にはお薦め。すでに「おとな」になって久しい我が身だけれどETVで梅棹忠夫さんの言葉を噛み締めつつ、人間って、身を切られるくらいに痛い思いをして学習してもすぐに忘れてしまういい加減な生き物なんだな、おとななんて信じらんないと青臭いことを思う。よくないことが判ったので、次は必ずよくなると信じていた子ども時代。それが、何かことあるごとに裏切られてきた。いい加減、おひとよしは止めたほうがいいのかな。「絶望」という気持ちをずっと抑えて3.11以降、生きて来たよ、私。